本質観取を地域に浸透させる
苫野 このあいだFC今治高等学校里山校という、開校2年目の非常に自由な学校に行きました。サッカーの岡田武史監督が学園長を務める、探究の教育に振り切ったようなところです。そこで本質観取をやったんです。
終わった後に、生徒たちが何人も来てくれて、「今日の本質観取とてもおもしろかったです。そこで私たち、哲学対話部をつくりたいです!」って言ってくれて。「ついては学外顧問をお願いします」と頼まれ、あれよあれよといううちに手続きも進み、新しい部ができました。
それこそ“論破”でも“言いっぱなし”でもなくて、真に本質に迫る対話を体験したうえで、ああ、こういう可能性があるんだと知って、それに希望を抱いてくれる若い人たちが現れたことは、嬉しいですね。
日本人に限らないかもしれませんが、これまで大人が真に建設的な対話をしてこなかったし、学んでこなかったと思うんです。論破芸のような、一見すると派手でマウントを取れるようなやり方に惹かれてしまうのも、多くの日本人が質の高い対話を経験したことがないからではないかと思います。本当に建設的でよい対話が存在するんだと知ることができれば、そこを目指せるはずです。
真に優れた対話を経験すると、その良さは必ず広がっていくんじゃないかと私は思っています。楽観的すぎるかもしれませんけれども、そういう良い対話をちゃんと体験できるような場をたくさんつくっていくのも我々の仕事のひとつと考えています。
岩内 私はとある地区の保育園の園長会で哲学対話の研修を開いたんですが、まずは園長に哲学対話のやり方を知ってもらい、それから保育士の皆さんの間にもそれを広めてもらって、という二段構えにしました。そういう形で、少しずつ知見を広げていくしかないですね。
大学でも、まずは学生ファシリテーターを育てています。来年度からは学生ファシリテーターを連れて地域の人のところに行ってもらう予定です。ただ単に本を読んでください、だけでは難しいところがあるんじゃないでしょうか。核になる人を育てないと。
そういえば、苫野さんはもう熊本を“拠点”化しているんですよね。
苫野 拠点(笑)。
岩内 これは結構大事で。つまり、「この地域に行けば本質観取が広まっている、根づいているという地域をどれぐらいつくることができるか。私のいる愛知県豊橋市は人口38万人ほどの街ですが、いつかは本質観取を浸透させたいと思っています。
地域の中に本質観取が根づいていて、あちこちで常時やっている。色々なファシリテーターがいる、というのが理想ですね。そういう「拠点」を日本全国に少しずつ増やしていきたいです。東京には稲垣さんも、西研先生も竹田青嗣先生もいます。各地でそういう場所が出てくると、「熊本詣で」じゃないですけれども、とにかく本質観取を学びたければ熊本に行こう、みたいな流れができる。それぐらいのことが起こってくれば面白いですね。
稲垣 私は今度、日本語教育の教員養成課程で本質観取を始めます。日本語教育の現場に広げることも大事だけど、教員養成の人たちにまで広げていきたい。そうすると、ファシリテーターが色々なところに生まれていくことになるわけです。
苫野 昨年、一般社団法人ホンシツカンシュという団体を設立しました。稲垣さんも岩内くんもメンバーになってくれています。今度、4月からファシリテーター養成講座を始めます。ふたりにはその講師も務めていただくことになっています。
もともと熊本では、本質観取の可能性を感じてくれた経営者の方とか、私のゼミの卒業生たちなんかと、いろんな場で本質観取をずっとやっていたんですね。その経営者の方は、「本質観取Bar底板」というのもつくって、私のゼミの学生たちがバーテンダーとしてファシリテーターを務めながら、お客さんと一緒に本質観取をやる、なんていうことも続けていました。
こういう地道な活動が少しずつ広がって、一般社団法人ホンシツカンシュの設立に至りました。本質観取が、そしてそのファシリテーションができる人たちが草の根的に広がっていけばいいですよね。
本質観取の時代をもう一度!
――最後に、『本質観取の教科書』出版以降の目標や展望についても伺えますか?
岩内 今後10年で「本質観取の時代」を実現させたいですね。いわゆる社会実装をしたいです。いつか竹田青嗣先生が言っていたんですが、独りじゃできないけれども、何人か優秀な若手が出てきたら実現可能だと。いまは稲垣さんがいて、苫野さんがいて、下の世代にも本質観取の重要性を認めてくれる若い人たちがいるので。その世代で本質観取や普遍性というものを、単に理屈だけに留まらせず、実際に社会実装していくのが目標です。
稲垣 私は理念と実践の両面でそれぞれやりたいことがあります。まずは今回、力及ばず書けなかった「ことばにとって本質観取とは何か」というテーマについて、きちんと哲学的に書いて、それを日本語教育学の礎にしたいと思っています。現象学的には言語の本質とは何か、言語教育で本質観取をやることにはどういう意味があるのかを文章として形にしたいです。
実践面では先ほども言いましたが、本質観取は日本語教育の色々なレベルで扱えるということを伝えられるように、大きなワークシートのようなものをつくりたいですね。初級のこのレベルだったらこんなトピックはどうだろうか、このレベルだったらどうするか、というのを事例も豊富に入れて書きたいと考えています。
苫野 昨年、竹田青嗣先生との対談で『伝授! 哲学の極意』(河出新書)という本を出版しました。その書き出しは、“哲学は瀕死の状態である”で始まっています。
実際、この数十年で哲学はほとんど死にかかっています。目指すべき指針や価値を打ち出せなくなり、細かな実証研究のような形で哲学者たちのことを扱うか、あるいはちょっと斜め上から物事を見て、「こんな考え方も面白いでしょ」と言うような、単なる知的遊戯みたいなものが多くなってしまった気もします。
今回の本では、「哲学の本質は本質観取である」という主張を正面から打ち出しています。真の意味で哲学が蘇るためには、本質観取の時代をもう一度再興する必要があると思うんですよね。「これこそが哲学の本当の意義なんだ」ということを改めて強く訴えていきたいです。
また、今回の本ではあまり書かなかったんですが、科学も本質観取をベースにする必要がある場合が結構多いんです。特に社会科学がそうですね。
いまはエビデンス全盛時代で、EBPM(エビデンス・ベースド・ポリシー・メイキング=根拠に基づいた政策立案)ということが喧伝されています。ちゃんとエビデンスに基づいて政策や実践をやるんだ、と。でもそのエビデンスは、果たして本当に良い社会に資するものなのか。そういうものをちゃんと測定できているんですか? 良い教育に資するようなものを測定しているんですか? という部分はほとんど問われていません。
つまり根底に哲学が無いので、とりあえず手近なものを測定してエビデンスだと言ってしまう。「それを測定することに何の意味があるんですか?」と思うような研究も多い。そんな時にこそ、やっぱり本質観取が必要になってきます。
よい教育に資するエビデンスとは何か。そもそもよい教育とは何なのか。よい社会とは何か。本質観取をベースにすることで、より本質的な研究や政策立案ができるようになるはずです。そして改めて、平和は最後の最後、対話によってしかつくり出せません。そのために微力ながら、できることを全力でやっていきたいなあという思いを新たにしました。
取材・構成/集英社新書編集部

