2011年3月11日に発生した東日本大震災から、今年で15年を迎える。アイドルグループ・泡沫パーティーズに所属し、3月24日にデビューライブを行なう宮原あこさんは、小学生だった当時に地元・宮城県仙台市で被災。長年PTSDに苦しみ、「発信を避けていました」と明かすなか、今回は初めて“あの日”を語ってくれた。
校庭が津波で浸水、避難所の過酷な環境
宮原さんは小学生の頃に市内沿岸部で被災。地震が起きたのは、帰りの会をしているときだった。
「学校の指示でまずは校庭に避難したのですが、すぐに『津波が来る』という話になって。一部の児童は屋上に避難したんですが、学校は“車で逃げられるのなら子どもを引き渡す”という方針だったので、親が車で迎えに来てくれました。
まず祖母と父が来て、学校で私と弟を車で拾った後、少し内陸にある幼稚園で妹を拾い、海から離れた市内の山のほうまで逃げました。母は看護師だったので、被災者の対応に当たってました」(宮原あこ、以下同)
夜になり、一家は避難所の場所を聞くため小学校へ。そこで目にしたのは、津波で浸水した校庭だった。
「私の学校は小高い場所にあったので校庭だけで済みましたが、同じ学区の中学校は1階の中ほどまで津波が来たと聞いてます。より海側では2階の中ほどまで津波が入り、屋上に逃げた人以外は亡くなったと聞いたので、本当に紙一重でした」
そこからは避難所となった教室で生活。幸いにして2日ほどで母の勤務先の看護施設に移れたが、有事には年齢も性別も関係なく、大人を頼ることもできなかった。
「小学生でも自分より年下の子たちの世話をしたり、体育館から備品を運ぶのを手伝わなきゃいけなかったんです。空気的にも『下の子たちも悲しむから、泣いたり悲しんじゃいけない』みたいな感じでした」
看護施設へ移ってから1週間ほどで戻れた自宅も、1階部分は浸水。当時はリソース不足で業者も呼べず、大宮の親戚も含めて泥をかき出し続け、2階で生活を送るようになる。
2階での生活中、しばらく電気はつかず、風呂も近所の家で借りていたという宮原さん。過酷な環境のなか、さらなる追い討ちがかかる。
ニュース、緊急地震速報、復興応援ソング……あらゆる震災の記憶がNG
「当初は頑張らなきゃと思ってボランティアなどいろいろやってたんですけど、そのツケが被災2週間後ぐらいにきたのか盲腸で1週間入院したんです。しかも、私は母が看護師で被災者の対応をしていたから、面会もできなくて……。
小児科の他の患者はお母さんと一緒なのに、私は夜も1人で、その1週間は結構しんどかったです」
この孤独こそ、PTSDの引き金となる。最初の症状は中学3年、震災を風化させないための総合授業であらわれた。
「防災ノートに震災の死者数や行方不明者数、けが人を棒グラフにしたものがあったんですが、それを見たときに、『あの入院中のつらかった経験って、こんな紙にパッと書かれちゃう数字の1つでしかないんだ』と自覚して、その瞬間にすごく気持ち悪くなっちゃったんです」
そこからスクールカウンセラーが週1でカウンセリングを行なうようになったが、症状は悪化。高校進学後は本格的にPTSDを自覚し、震災を想起させるものは次々と受けつけなくなった。
「それから避難訓練はずっと出てないし、防災授業も黙祷も参加してません。自分の中に何かトリガーがあり、勝手に涙が出たり過呼吸になったりするんです。
町のサイレンとかもダメで、公園で遊んでるときに鳴ると急に倒れたりしました。スマホの緊急地震速報もオフにしてるんですが、やっぱりオンの人が多いので、電車で一斉に鳴り響いて気分が悪くなり、倒れて駅員さんに救護してもらったこともあります。
復興を応援する歌も、いい曲なんだけど聴くとすごく気持ち悪くなるし、テレビも3月に入ったらニュース番組はつけないって決めてました。
大学で上京して1人暮らしを始めたときも、毎年この時期が怖いから、友人たちが3月5日から12日くらいは泊まりに来てくれてました」
寄り添ってくれる友人もいたが、ときには周囲から理解を得られずに苛まれることもあった。
「進学するにつれ同じ境遇の子が減っていき、震災の記憶を共有できる子がどんどんいなくなっていったんです。
高校が仙台育英というマンモス校で全国から生徒が来てたので、他県から来た子は私がちょっとした揺れでも怖がると、和ませるつもりとはいえ『大げさだよ!(笑)』って言ったり。進学してからは、上手に生活できなくなりましたね」
アイドルになってからも、PTSDの影響は続く。3月11日という大事な日でも、仕事を入れることができなかった。
「毎年3月11日は、ライブやレッスンを入れないでくださいとずっと断っていました。この日は外に出ると倒れたり泣いたりしちゃうので、人に迷惑をかけるのが怖かったんです」
同時に抱えていたのは“葛藤”だ。「“忘れてしまう”ことに対する恐怖がずっとある」と語る宮原さんは、薄れゆく記憶や自分が生きていることに罪悪感を覚えていたという。

