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今回お話を聞いたのは、医師で小説家の朝比奈秋さんです。30代半ばで「突然物語が頭に浮かぶようになった」ことをきっかけに小説を書きはじめ、40歳で小説家デビュー、43歳のときには、結合双生児の視点で描かれた『サンショウウオの四十九日』(新潮社)で第171回芥川賞を受賞された朝比奈さん。
もともとは消化器内科の勤務医として10年近くはたらき、一時期は1カ月の残業が300時間を超えるほどの激務を経験してきたと言います。2025年3月に発売された最新作『受け手のいない祈り』(新潮社)では、当時の経験が登場人物たちの状況に色濃く映し出されています。過酷な医療現場の現実を圧倒的なリアリズムの筆致で描き切ったことが評価されて、文化庁主宰の第76回芸術選奨文部科学大臣新人賞に選ばれました。
医師として、そして小説家として、病気や医療、「生と死」と向き合いつづける朝比奈さんのこれまでのキャリアについてお話しいただきました。
人はなぜ病気になるのか。「哲学的な問い」と、「科学的な医療」とのギャップを抱えながらすごした勤務医時代
──朝比奈さんはなぜ医学部を、そして医師の道に進まれたのでしょうか?
幼いころから、人の生死や病気について哲学的な観点で興味を抱いていて、その延長線で医学部に進学しました。大学での学びに興味が持てなかったため、「留年せずに早く卒業して自由になりたい」というモチベーションで勉強していました。家族に学費を出してもらっていた以上、中退する選択肢は思い浮かばなかったですし、そもそも中退してやりたいことも特になかったので。
医師になったのも、周りに流されるように就職活動をして内定をいただき、医師免許取得の国家試験に受かったからです。面接が進んで、気付いたら研修医になっていました。
医学部で学んでいるときから、科学的な治療を目的とする「医療」と、自分が抱く、人の生死や病気についての「哲学的」な関心との間にはズレを感じていて。それは医師としてはたらき始めてからも消えませんでした。

──とはいえ、医師として現場に立ち、日々患者さんと向き合うことにはそれなりのエネルギーを要すると思います。何をモチベーションにはたらいていたのでしょうか?
医療の現場には、日々苦しんでいる患者さんがどんどん押し寄せてくる。もともと、「命ってなんやろう」「なんで人は病気になるんや」とぼーっと考えていたタイプで、医師になってからも心の底ではそんな哲学的な問いに思い悩みながらも、目の前には科学的な治療を求めている方がいて。心の内側とのギャップを感じながらも、苦しんでいる人がいる以上は向き合わないわけにもいかない。「医療のプロとして淡々と治療しなければ」と突き動かされていた感覚です。
──当時は医師を辞める選択肢はなかったのですか?
医師という職業に執着はなかったんですが、仮に辞めたとしても、自分自身の心の奥底にある生死への探求がおさまるわけではないと思っていました。
ただ、組織の中ではたらくのは合わないなとずっと感じていました。哲学への探求心とは別に、個人の性質として集団行動が苦手だったので。たとえばタイムカードを押したくないから押さないなど、問題行動を起こして会議にかけられたこともありました。医師不足なので、クビになることはなかったですが……。

──これまで勤務医として7つの病院を経験されており、うち3つは救急病院だと伺っています。かなりの激務も経験されたとか。
あれは30歳ごろかなあ。大学を卒業してしばらくは救急病院を転々としていたのですが、その最後に2年弱勤めた救急病院は本当に忙しかった。地域の要となる救急病院で、医師の誰かが辞めたら医療崩壊してしまうような現場でした。ピーク時には月300時間を超える残業で、ピーク時以外でも月100~200時間の残業をこなしていました。寝ずに翌日を迎えることも当たり前。だんだん、1日の“境界”が分からなくなっていく日々が4、5カ月続いて。
──病院の外との接点はあったのでしょうか?
なかったですね。病院の前に交差点があって、そこを渡ると病院借り上げのマンションがあって。自宅と病院をわずか2分ほどで行き来できる距離の範囲内で生きていました。とはいっても、自宅には溜まった洗濯物を干しにいくときぐらいしか帰っていなかったので、ほとんど病院にいました。
そんな生活を送っていると、だんだんとおかしくなってくるんですよ。あらゆる境界がなくなっていくんです。睡眠と覚醒、生と死、病人と健康な人……対極にあるはずのものが、ぼくにとっては同じように思えてくる。生きていても死んでいてもどっちだっていいという感覚になる。ふと「一人になりたい」と思ったんです。
そんなタイミングで奇跡的に同じ職場に新しい医師が入ってきて、医療崩壊の心配なく辞められる状況になりました。ただ、知り合いがいる土地にいても一人にはなりきれないんですよね。「朝比奈、今無職やったらこっちにこいよ!」と別の病院から誘われてしまうから。
それで、知り合いが一人もいない神奈川県に引っ越して、しばらくぼんやりすごしていました。さすがに精神的に限界でそろそろ死ぬかもな、なんて思っていても、体はめちゃくちゃ元気で。生きていくためにも、そこから2~3年かけて徐々に医師の仕事を再開して、33歳ぐらいには専門性が高い病院ではたらき始めるなど、社会に戻ってきました。
「1年で声を出すのは5分ぐらい。朝目覚めて、ぼーっとするか書くか」
──そんな中で、35歳ごろには「小説を書く」ことと出会います。どんなきっかけがありましたか?
パソコンに向かって胃腸の論文を書いているときに、ふと頭の中に物語が映像として浮かんできて。そのまま新規ドキュメントを開いて、頭の中で見えたままを文字にしはじめました。特に小説に親しんできた人生でもなかったのですが、ただひたすら“自動的”に書き進めていました。
そうした生活が2年ほど続いて、目も疲れるし小説家を目指していたわけでもなかったので、書くのをストップしようと思ったこともあったんです。でも、もうそのときにはやめることが難しくなっていて。
──というと?
気を抜いても頭に物語が浮かんでくるので、自分の中に溜め続けることができず、書かないとそれを忘れられないんです。書くのもしんどいけど、書かないのも同じぐらいしんどい。じゃあしゃあないか、と書き続けていましたが、ついには医師の仕事に差し支えるほど物語が浮かぶようになってしまって。正社員の医師から、フリーランスになって、週5勤務を週4勤務にしました。そこから少しずつ勤務を減らして最終的に無職になりました。

──“無職”でいることに、不安などはなかったのでしょうか?
不安はゼロではなかったですね。無職になってしばらく経ったとき、知人が病気になって、専門病院を調べていると、偶然同級生がホームページに載っていたんです。彼は健全にキャリアを積んでいる一方で、ぼくは無職で、お金にならない小説を書いている。とんでもない落ちこぼれのような、社会から見放されたような孤独感を味わうわけですが……でも、それは一瞬です。
だって仮に毎日はたらいてキャリアを重ねて、友達や家族と楽しくすごして、そんないわゆる“普通の生活”にあこがれを抱いたとしても、頭の中の物語を止めることはできないので、どうしようもなかったんです。ただ、今振り返ると「医師として真面目にはたらいてきた自分が、なんで無職になるんや」と、言葉にならないストレスはずっと抱えていたんだろうなとは思います。コインランドリーで出会った人と盛大なケンカをするなど、今となっては考えられないような怒りの爆発が、無職になって最初の年に何度かありました。
──当時はどのような生活を送っていましたか?
朝目覚めて、ひたすら物語を書いていました。ときどき、寝るまで一日中ぼーっとする日もありました。それ以外は、ご飯を食べて、洗濯をする。人と話すことはほとんどなくて、プロになる前の1年は、年間で5分ぐらいしか声を出してなかったと思います。人って喋っていないと、声が出なくなるんですよ。

