
「自分は絶対に悪には加担しない」
皆さんにはそう言い切れる自信があるでしょうか?
しかし心理学の歴史には、その自信を揺るがす有名な実験があります。
1960年代、米イェール大学の心理学者、スタンレー・ミルグラムは、一般の人々に「記憶実験」と称して参加してもらい、質問に間違えて答えた相手に電気ショックを与えるよう指示しました。
その結果、参加者の約3分の2が、相手の悲鳴や懇願を無視して、最大450ボルトのショックまで与え続けたのです。
この実験は長らく、「人は権威に従うと残酷な行為をしてしまう」という証拠として語られてきました。
しかし最近、この実験の録音データを詳細に分析した新しい研究が、この問題に新たな理解を与えています。
それによると、悪に加担してしまう要因は「服従」ではなかった可能性があるのです。
研究の詳細は2026年2月19日付で学術誌『Political Psychology』に掲載されています。
目次
- 実験参加者は「命令に従った」のではなかった?
- 悪に加担させるのは「圧力」と「沈黙」
- 悪は特別な人が生むものではない
実験参加者は「命令に従った」のではなかった?
今回の研究では、イェール大学に保存されていたミルグラム実験の音声記録136件が再分析されました。
研究を行ったのは英オープン大学(The Open University)の心理学を中心とするチームで、彼らはあるシンプルな疑問を持ちました。
「参加者は本当に実験の指示に、従っただけだったのか?」
ミルグラムの実験には、明確な手順がありました。
まず、問題を読み上げ、回答を確認し、電圧を告げ、ショックを与え、正解を読み上げるという流れです。
(ただし注意すべき点として、電気ショックを受ける人物は役者で、電気ショックを受けたふりをしているだけです)
この手順こそが、行為を「科学実験の一部」として正当化していた重要な枠組みでした。
ところが分析の結果、驚くべき事実が明らかになります。
完全に指示に服従したとされる参加者であっても、この手順を最後まで正確に守った人は一人もいなかったのです。
さらに、電気ショックを与える際の約半分の行動で、何らかの手順違反が確認されました。
例えば、役者が電気ショックに対して悲鳴を挙げている最中に次の問題を読み上げ始め、間違いを誘ったりしていたのです。
つまり、参加者たちの多くはすでに「実験としてのルール」から逸脱していたのです。
にもかかわらず、彼らはある行動だけは決してやめませんでした。
それが「電気ショックを与えること」です。
この結果は、従来の説明に大きな疑問を投げかけます。
もし人々が「科学的な実験として正しいから従っている」のなら、なぜ科学的な手順を無視したのでしょうか。
ここから浮かび上がるのは、「人は命令に従っていたのではない」という可能性です。
悪に加担させるのは「圧力」と「沈黙」
では、なぜ人々は行為をやめなかったのでしょうか。
研究者たちは、その原因を「環境の変化」に見出しました。
ミルグラム実験では、参加者が電気ショックを与えるのをためらうと、実験者は次のように段階的な指示を出します。
「続けてください」
「実験には続行が必要です」
「続けることは不可欠です」
「あなたには他に選択肢はありません」
このように、前進する方向には強い圧力がかけられていました。
一方で、奇妙なことに、参加者が手順を破っても実験者は何も言いませんでした。
訂正もしなければ、中断もしないのです。
つまり、
・「続けろ」という圧力は強くかかる
・しかし「実験の手順が正しいかどうか」は放置される
という状況が生まれていたのです。
この結果、実験は徐々に「科学的な目的」を失っていきます。
最初は記憶実験だったはずが、気づけばただ「人に苦痛を与える行為」だけが残る状態になっていたのです。
研究者たちはこれを「正当な暴力から不当な暴力への移行」と呼びます。
重要なのは、この変化がほとんど意識されないまま起きる点です。
参加者にとっては、突然「悪いことをしている」と感じる瞬間があるわけではありません。
むしろ、ただ流れの中で行動を続けている感覚に近いのです。
そしてもう一つ、非常に重要な発見があります。
電気ショックを与え続けた人たちは、冷酷な人間だったわけではありませんでした。
むしろ、協調性が高く、ルールを守ろうとする「まじめで良い人」ほど従いやすい傾向があったのです。
一方で途中でやめた人たちは、特別に勇敢だったわけではありません。
彼らはただ、「これはまだ意味があるのか?」という問いを持ち続けていました。
つまり、電気ショックを与え続けた人たちとの違いは、強さではなく「疑問を持って、考え続けたかどうか」だったのです。

