戦国時代、武将たちの間で「衆道」と呼ばれた同性愛は、決して珍しいものではなかった。しかし、有名な「織田信長と森蘭丸」の諸説は史料上の根拠を欠くものが多い。その一方で、武田信玄や伊達政宗といった名将たちは、男性の恋人の不機嫌を鎮めるために熱い恋文を綴っていた。なんとも恥ずかしいその手紙の内容とは。
河合敦氏の書籍『戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか』より一部を抜粋・再構成し、名将たちの恋文を紐解く。
織田信長と森蘭丸の性愛関係は噓
現在、性の多様性が盛んに言われるようになっているが、日本では古代から同性間(主に男性間)での恋愛は珍しいものではなかった。とくに戦国時代は、武将と年下の者との恋愛関係は“一般的”だといえた。
そう聞いて、一番に思い浮かぶのは、織田信長と小姓の森蘭丸の関係だろう。
だが、意外にも二人が性愛関係にあったというのは、一次史料(当時の手紙や日記、公文書など)では一切確認できないのだ。
それどころか、比較的信憑性の高い二次史料(後世の編纂物)である太田牛一の『信長公記』にも記されていない。つまり、デマなのだ。
上杉謙信が同性愛者である根拠
生涯独身を通した上杉謙信は、本当は女性だったとか、同性愛者であったとかいわれる。
さすがに女性というのは無理があるが、同性愛者の根拠とされるのは、関白の近衛前久が知人の僧侶に宛てた手紙だ。
そこには、謙信が上洛したとき、「彼が華奢な若衆をたくさん集めて夜更けまで大酒を飲んで楽しんでおり、たびたび夜を明かすこともあった。謙信は大の若衆好きだという」と記されているからだ。若衆とは、男色の相手役となる少年のこと。
ただ、歴史学者の山田邦明氏は、この説を明確に否定している。手紙の文中で若衆を集めて「夜通し酒を飲んだのは義輝と前嗣で、景虎の動きをこの書状から直接うかがうことはできない」(『人物叢書 新装版 上杉謙信』吉川弘文館)というのだ。
義輝とは将軍・足利義輝のこと。前嗣とは近衛前久、また景虎は謙信のこと。確かに文中には「少弼(景虎)は若もじ(若衆)数寄の由、承り及び候」とあるが、これは「謙信も若衆が好きだと聞いていますよ」という噂を書きとめたにすぎない、と山田氏は同書で述べている。
おそらく謙信が生涯不犯を通したのは、仏教(ことに毘沙門天)に帰依していたからだろう。幼い頃、名僧・天室光育の薫陶を受けて深く仏教を崇敬し、京都大徳寺に参禅したり、二度も高野山へ参詣しており、四十五歳のときには剃髪している。

