武田信玄が書いた六歳下の少年宛ての手紙
一方で、しっかり一次史料に同性愛指向が残る武将がいる。
それが上杉謙信のライバルである甲斐の武田信玄だ。信玄が二十代のときに6歳年下の春日源助(源五郎)に与えた恋文が東京大学史料編纂所に残っている。恋文というより、ちょっと驚くが、ほかの男性との浮気を源助に弁解する手紙である。
その内容を簡単に紹介しよう。
「確かに私は、弥七郎にたびたび言い寄ったが、彼は腹痛だといって、ついに私は思いを遂げることはできなかった。これはウソではない。これまでも弥七郎に夜伽をさせたことはただの一度もない。とくに今日は、庚申の日(庚申待。神仏を祀り、皆で徹夜をする習俗)なので、彼に伽をさせることはできるはずもない。どうか、私のことを疑わないでほしい。神仏に誓うよ。もしこの話が偽りなら、私は神仏の罰を受けてもかまわない」
こう記し、最後のほうに大明神や八幡大菩薩、諏訪上下大明神などの名がずらずらと書かれている。おそらく恋人の源助が、いきなり信玄の浮気を疑って事実かどうかを迫ったので、慌てて書いたのだろう。本来なら起請文なので牛王宝印という専用紙の裏に記すのだが、その暇もなかったようだし、文章も言い訳を重ねて見苦しい。
このとき信玄は二十二歳の青年。源助は十六歳の少年で、のちに彼は武田氏の重臣となり、高坂弾正虎綱と名乗る。武田信玄の事蹟を称えた軍学書『甲陽軍鑑』は、この高坂が大部分を執筆したといわれている。
つまり、名将としての信玄の地位を不動にしたのは、かつての恋人だったわけだ。なんとも面白い。
伊達政宗が浮気相手へ送った手紙
あの「独眼竜」と呼ばれた伊達政宗にも男性の恋人がいた。
相手の只野作十郎に宛てた書簡が仙台市博物館に残っている。こちらも浮気に関連する揉め事の手紙だ。
政宗は作十郎と恋愛関係にあったが、あるとき政宗は作十郎がほかの男と浮気をしたと疑い、酒の席でひどく罵った。これにショックを受けた作十郎は、自分の腕を脇差で傷つけ、身の潔白を誓う起請文に血判を押して政宗に送りつけてきたのである。これに対する政宗の返信が現存している。意訳して紹介しよう。
「すまん。酒の席でお前に何を言ったのか、まったく覚えていない。でも、どうしてもお前のことを諦めることができない。なぜ腕を傷つけて血判など押したのか。もし私がその場にいたら、抱きとめてもやめさせたものを。お前の真摯な気持ちに対し、私も股や腕を傷つけなくてはならないと思っている。けれど私は孫を持つ身。そんなことをすれば、『いい年をして』と陰口を叩かれ、子や孫の恥になる。だからグッと我慢している。私も部下が見ているところで起請文を書いて血判を押したので、どうかこれで赦してほしい」
戦国武将の衆道(男色。若衆道の略)は一般的だとは知ってはいても、孫を持つ政宗が、こういった手紙を男性の恋人にしたためていたというのは興味深い。

