自分の中の「知のOS」を更新していく
——高度な専門知識を効率的に吸収し、執筆活動に活かすために重要なポイントはありますか?
自分の中の「知のOS」を更新していくことでしょうか。私が大学に入学した頃は、まだマルクス主義の影響が強く残っていたものの、ポストモダン的な言説に知的権威が移りつつありました。
レヴィ=ストロースやミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ドゥルーズ=ガタリといった構造主義・ポスト構造主義の思想家たちが、「すべては社会的な構築物である」とか「真理など存在しない」と説いたわけです。
当時、雑誌のインタビューでフーコーが「権力は外側から抑圧するものではなく、君の内側にある」と語っていて、大きなショックを受けました。
それまで、権力というのは国家や政府、軍隊や警察といった外部にあって、それに抵抗することが自由の獲得だと思っていましたが、実は権力は内面化されていて、自分で自分を拘束している。それ以来、善悪二元論を疑うようになり、「私が善で奴らは悪」という主張にはまったく興味がなくなりました。
知のOSの次の転機は、2000年前後に進化心理学と出会って、リチャード・ドーキンス
が『利己的な遺伝子』でなにを語っていたのかようやくわかったときです。進化心理学や行動遺伝学の知見に触れたことで、それまで社会的構築物だとされていた文化や人間の心理、社会の歪みも、実は生物学的な基盤に支えられていることに気づきました。
私たちの感情は進化の過程でつくられてきたものだから、人間の不合理な振る舞いは生存戦略の名残りとして説明できる。これで、進化論と整合性のない人文科学の本は読まなくなりました。
その一方で、これまでの自分の考えとちがう主張にも興味があります。そこにOSを更新する大きな鉱脈があるかもしれませんから。
——実践的な情報の集め方として、自分と異なる思考や主張などはどう見つけていますか?
Amazonの「よく一緒に購入されている商品」で重要な本を見つけたことが何度かあります。自分と同じ関心を持つ読者がどんな本を買っているかは、とても良い情報源。本を読んで「こんな研究があるのか」と気になったら、註からオリジナルの論文をたどることもあります。
今はネットで検索すれば論文のPDFを見つけられるし、有料でも一本数千円程度で買えます。かつては高価な学術誌を購読している大学の研究者しか入手できなかった情報が、インターネットによりすべての人に開放されたのです。
以前は英語の論文などは辞書を引きながら読んでいましたが、今はDeepLで一瞬で翻訳したり、ChatGPTに「要約して」と頼んだりできます。引用したいところだけ原文と照らし合わせればいいので、ずいぶん楽になりましたが、そのかわりどんどん英語を忘れています(笑)。
自由でいられる「知の宇宙」
——近年は多様な真実が登場し、情報の取捨選択自体が難しくなっています。たとえば、SNSでは陰謀論なども爆発的に出回っていますが。
もともと「天下国家」の話には興味がないんです。トランプや習近平がどうしようと、私がそれを変えることはできません。ストア哲学は「自分が変えられること」と「変えられないこと」を分け、「変えられること」に集中するよう説きます。
この世界がどのようなルールで成り立っているのかを知るのは大事ですが、そのルールを個人の力で変えるのはほぼ不可能でしょう。自分自身の経済的土台を構築し、人的資本に一極集中しようと思うのは、 自由でいられる唯一の場所が、誰にも侵入できない自分の「知の宇宙」だからです。
——AIの登場で「知」の価値が揺らいでいるともいわれますが、そんな今、読書の価値はどこにあると思われますか?
知識社会は定義上、高い知能を持つ者に大きなアドバンテージがある社会なので、これからはその格差がさらに拡大するのではないかと思います。
知識やアイデアをマネタイズできる人間が、富とステータスを独占していく。AIに仕事を奪われるのではなく、AIを使いこなし、自分の能力を拡張できる人間にとっては、こんなに面白い時代はないのではないでしょうか。
読書は、著者が一生をかけて獲得した知識を、わずか数時間、数千円で自分のものにできる得難い機会ですから、これほど効率の良い〝投資〞は他にありません。
まずは自由な時間を確保し、ジャンルのちがういろいろな本を読めば、これまで知らなかった知の世界を体験できるし、それが人的資本に反映される。すくなくとも私にとっては、これが人生を楽しむ秘訣になっています。
文/橘玲
(集英社クオータリー コトバ 2026年春号より)

