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“叩き上げ首相”の限界…延命策が裏目に出た菅義偉政権の末路【歴代総理とっておきの話】

“叩き上げ首相”の限界…延命策が裏目に出た菅義偉政権の末路【歴代総理とっておきの話】

首相官邸HPより

永田町取材歴50年超の政治評論家・小林吉弥氏が「歴代総理とっておきの話」を初公開。今回は菅義偉(下)をお届けする。

延命策が裏目…党内反発で孤立加速

令和2(2020)年9月、安倍晋三政権の後継として高い支持率で発足した菅義偉政権だったが、思いのほか“たそがれ”は早かった。その原因の一つは、菅が首相としての資質を問われたことである。

記者会見では原稿を棒読みすることが目立ち、そのために首相としての熱意、意気込みなどが、なかなか国民に伝わらなかった。例えば、予算委員会での質問に対する答弁も、噛み合わないことが度々で、これには首相としての説明能力を疑問視する声が上がった。

令和3年の年明け以降、新型コロナウイルスの変異株(デルタ株)が感染拡大し、これも手伝って内閣支持率が下落、自民党内での求心力低下に拍車がかかることになった。折から強行した1年延期開催の東京五輪・パラリンピックも、狙い通りの政権浮揚にはつながらず、一方で東京都議選における自民党の敗北、菅のお膝元である横浜市長選での自民党候補の敗北なども、政権の不人気ぶりを際立たせることになった。

その結果、同年の通常国会が閉幕する初夏ごろには、自民党内から「菅では次の選挙を戦えない。党の“表紙”を代えるべき」などの声も出始めた。

しかし、それでも菅は苦境打開のために策を巡らせ、衆院議員の任期切れ直前に、異例となる党人事を断行した。さらに、衆院選に勝利すれば無投票で「再選」の道が開けるとばかり、総裁選を先送りして衆院解散するなど、果敢に“延命策”を講じたのだった。

しかし、こうした策はむしろ自民党内の反発を買っただけで、結果的には連立を組む公明党からも「解散にはノー」と、強く反発されてしまった。すでに発していたコロナ関連の緊急事態宣言以上に、菅政権そのものが“緊急事態”に陥ったのである。

歴代総理とっておきの話】アーカイブ

“裸の王様”と評された情報の偏り

リーダーシップへの信頼を失った菅政権は、まさに「四面楚歌」の状態で、政権の延命策はここに至っていよいよ万事休すとなった。

令和3年9月3日、菅は17日告知、29日投開票の自民党総裁選を前に、ついに不出馬を表明。第2次安倍内閣で官房長官を務め、じつに7年8カ月の長きにわたり首相を支え続けたものの、安倍政権の末期から2人の間には“すきま風”が吹いていた。これも尾を引き、「多数派工作に自信が持てず、出馬を断念せざるを得なかった」(政治部記者)という見方が、どうやら真相のようであった。

菅が総裁選への不出馬を表明した翌日、政治学者の御厨貴は朝日新聞の朝刊で、政権の約1年を次のように記している。

「私から見ると、首相になりきれなかったままの1年であった。(政権運営について)官房長官時代の内閣人事局の発足により、官僚たちは説明しない政治を受け入れ、官僚主導政治は徐々に空洞化していった。菅首相は『情報』で生きてきた政治家ながら、長く官房長官として権力の中枢にいたことで、都合の良い情報ばかりが集まるようになり、“裸の王様”になったのではないか」

ちなみに、日本国内での五輪開催は夏季、冬季を合わせて4回だが、首相が退陣するというジンクスがある。昭和39(1964)年、東京開催の池田勇人、昭和47(1972)年、札幌開催の佐藤栄作、平成10(1998)年、長野開催の橋本龍太郎である。菅もまた、そのジンクスを打ち破れなかったことになる。

配信元: 週刊実話WEB

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