
私たちは普段、3次元の立体について「これくらいなら直観で答えが出る」と素朴に信じて生きています。
たとえば、こんな問いです。
「サイコロの中を同じ大きさのサイコロを通過させられるか?」
ほとんどの人が、まず「無理に決まっている」と答えるはずです。
同じ大きさなのだから、通り抜けられるわけがない。
直観的にそう感じます。
ところが、答えはイエスなのです。
サイコロを角を上に向けて立てれば、同じ大きさのサイコロを通せる穴を開けることができます。さらに巧妙な向きを選べば、約6%大きい立方体まで通せることまで分かっています。
これは300年以上前にライン川のルパート王子という人物が賭けに勝ったと伝えられ、後に数学者ジョン・ウォリスが数学的に証明してみせた、数学界では有名な話です。
それから現代に至る300年のあいだ、数学者たちはあらゆる立体を調べてきました。
立方体、正四面体、正八面体、正十二面体、正二十面体、サッカーボール状の形まで――次々と「自分と同じ形のコピーを通せる、まっすぐな穴」が見つかり、ついに2017年、3人の研究者が正式にこう予想しました。
「すべての凸多面体には、自分と同じ形のコピーをまっすぐ通せる穴を開けることができる」と。
ところがオーストリアの若い数学者2人が、5年がかりの研究の末、現時点で唯一、自分自身の通り抜けが不可能な多面体を発見してしまいます。
その形の名は、ノパーヘドロン。
2人は無限を別の無限に変換し、無限の弱点を突き、有限で無限を打ち倒す定理を駆使して5年がかりで証明にこぎつけました。
なぜその多面体だけが、300年続いた素朴な期待を裏切る現代の予想をくつがえせたのでしょうか?
研究の詳細はプレプリントサーバーである『arXiv』にて公開されています。
目次
- 自分自身を通り抜けられる立体、という奇妙な事実
- 見つかりはじめた、自分を通れない形
- 無限を別の無限に変換する魔法
- 300年来のルールを破る多面体がみつかった
- 3次元空間は高次元よりも変な空間かもしれない
自分自身を通り抜けられる立体、という奇妙な事実

・サイコロの中をサイコロが通るとは?
まずは話の出発点となる、ルパート王子のサイコロの不思議さから確認してみましょう。 「サイコロの中を同じ大きさのサイコロを通過させられる」というのは普通に考えると、確かに無理があります。 普通のサイコロは重さも硬さもあり、油圧プレスなどで無理に押し込めば両方とも壊れてしまいます。
しかし数学者が見ているのは、サイコロの材質ではなく、立体の形を決める「角の8個の点の配置」と、その影の形だけです。
凸多面体というのは、角の点さえ確定していれば、それらを結ぶことで辺・面・中身までが自動的に決まる立体です。
頂点の配置は、立体全体を決める「骨格図」のようなものです。
サイコロを「8個の角の点の配置」とその影として捉える――300年前のルパート王子もそう考えました。
サイコロとサイコロを両手で押しつぶし合う狂人では、数学の歴史に名前を残すことができません。
才能に恵まれたルパート王子と、後にその話を書き残した数学者ジョン・ウォリスはそうではなく、「サイコロを<通す/通さない>という問題を考えるときに本当に重要なのは、角の8個の点に触れずに、その内部を通るかどうかだ」――つまり「角の8個の点が、もう一方のサイコロの影の内側にすっぽり収まる向きを見つけられるか?」と問題を数学的に翻訳したのです。
角の点さえ影の内側に入れば、辺・面・中身もすべて影の内側に収まる――だから角の点だけを調べれば十分、というのが鍵でした。
この条件では、ほんの少しの工夫で通り抜けが可能です。
具体的には、サイコロを角で立てます。
テーブルの上に、サイコロの一つの頂点だけが触れている状態です。 このとき、上から見下ろした影は、正方形ではなく正六角形になります。
そして正六角形の影は、もとの正方形の面より一回り大きいのです。
だから、その六角形の中には、もとのサイコロの一面より大きい正方形を描き込むことができる。
この対角線方向(角を上にした向き)でも同じ大きさのサイコロを通せますが、ニューランドが見つけた別の巧妙な向きでは、最大で約「1.06」、つまり約6%大きいサイコロまで通り抜けることができます。
これは数学的なトリックではなく、実際に3Dプリンタで作って実演している人もいます。 物理的に再現できる、れっきとした事実です。
・「すべての立体がそうなのか?」という、自然な問い

立方体がそうだと分かれば、当然次にこう考えたくなります。
「ほかの立体ではどうなんだ?」
ここで人間の好奇心が動き出します。
20世紀以降、世界中の数学者やパズル愛好家が、さまざまな立体を相手にこの問題を解いてきました。
1968年には、正四面体と正八面体もルパート性を持つことが示されます。
さらに正十二面体、正二十面体、そしてサッカーボール状の切頂二十面体まで――次々と「自分と同じ形のコピーを通せる穴」が発見されていきました。
それが20世紀以降コンピューターの能力が上がってきてからは特に、その速度は加速していきました。
どんなにチェックしても、出てくるのは通り抜けOKな「ルパート性を持つ立体」ばかりなのです。
自分と同じ形のコピーを通せる穴を持たない立体は、誰も見つけられなかった。
そして2017年、リチャード・ジェラード、ジョン・ウェッツェル、リーピン・ユアンの3人の研究者がついにこう正式に予想しました。
「すべての凸多面体は、ルパート性を持つ」
ここでいう凸多面体とは、ざっくり言えば「平らな面だけでできていて、へこみがない立体」のことです。
サイコロも、ピラミッド型も、サッカーボール型も、みんなこの仲間です。
その「みんな自分と同じ形のコピーを通せる」というのが、2017年の予想でした。
直観的にも、すごく自然に聞こえます。
私たちは普段、立体というものを「とりあえず手に取って、見れば分かるもの」だと思って生きています。
複雑な形でも、何度か回せばどこかに穴を通せそうな気がする。
だから「すべての凸多面体には、自分と同じ形を通せる穴を開けられる」と言われれば、「まあ、そうなんだろうな」と納得してしまう。
ところが――違いました。
見つかりはじめた、自分を通れない形

・「あるかもしれない」と疑い始めた2人の若手
話は約5年前に飛びます。
オーストリアで学生だった2人の数学好きの若者が、いつものようにYouTubeを眺めていました。
その日、彼らがたまたま開いた動画は、サイコロの中を別のサイコロが通り抜けていく、あの不思議な3Dアニメーションだったのです。
2人は、画面の前で釘付けになりました。
「ちょっと待って。これって、あらゆる立体でできるのか?」
その疑問が、彼らのその後の5年間を決めてしまいます。
2人の名前は、ヤコブ・シュタイニンガー氏と、セルゲイ・ユルケビッチ氏。
10代の頃に数学オリンピックの準備を通じて出会って以来の親友です。
シュタイニンガー氏は最終的に修士号を、ユルケビッチ氏は博士号を取得しましたが、2人とも最終的にはアカデミアを離れました。
シュタイニンガー氏はオーストリアの国立統計機関に、ユルケビッチ氏は運輸システム会社に勤めながら、空き時間で一緒に数学を続けています。
YouTubeでルパートのキューブを知った2人は、すぐにアルゴリズムを書き始めました。
さまざまな多面体を入力して、その立体に自分と同じ形のコピーを通せる穴(ルパートトンネル)があるかをコンピューターに探させるのです。
立体の角の点(関節)の位置をぐるぐる回転させながら、「全部の角の点が、もう一方の影の中に収まる向き」を探させる。
そういうプログラムです。
すると、奇妙な傾向が見えてきました。
ほとんどの立体については、アルゴリズムはほぼ瞬時に通し方を見つけてしまいます。
ところが、ごく一部の立体については、コンピューターをいくら走らせてもまったく見つからないのです。
まるで絶対に通過できない不良品の知恵の輪が存在するかのようでした。
理論ではどんな多面体も通り抜けなければならないのに、なぜ以上に苦戦する場合があるのでしょうか?
「これはおかしい」
2人はそう考えました。
アルゴリズムが見つけられないだけの可能性もありますが、ひょっとするとこの立体には、本当に通し方が存在しないのではないか。
2021年の論文で、彼らは公の場で初めてこう書きました。
「すべての凸多面体がルパート性を持つわけではないのではないか」
これが、2017年の「すべての凸多面体はルパート性を持つ」という予想に対する、最初のはっきりとした疑義表明でした。
ただし、当時の2人にとって、これはまだ「そう思う」というだけの話でした。 「そう証明する」とは別の話です。
・数億の形を試したGoogle社員
2人の予想に呼応するように、世界の片隅でも別の研究者が動き始めていました。
Googleのソフトウェアエンジニアであるトム・マーフィー氏です。
インターネット上では「Tom Murphy 7世(VII)」という遊び心のある名義でも知られている人物で、彼は仕事の合間に趣味として、なんと数億通りの多面体をコンピューターで生成し、片っ端からルパート性をチェックしていました。
ランダムに作った多面体、頂点を球面に並べた多面体、特殊な対称性を持つ多面体、そして「いままで見つかっていた通し方をわざと邪魔するように頂点を一つだけ動かした多面体」――ありとあらゆるパターンを試したのです。
それでも、彼のアルゴリズムはほぼすべての立体に、あっさり通し方を見つけてしまいました。
そんな中で、数学者たちは少しずつ「これは怪しい」という立体のリストを作っていきます。
「2週間、デスクトップでずっと作業しました。あの立体はあらゆる試みに抵抗するんです」
ジョンズ・ホプキンス大学のベンジャミン・グリマー氏は、62面の美しい立体「菱形二十・十二面体(ロンビコシド十二面体)」について、こう述懐しています。
これらの「通し方が見つからない頑固な立体」は、いつしか「ノパート候補」と呼ばれるようになります。
「ノー(できない)」と「ルパート」を合わせた造語で、先のマーフィー氏が「Tom Murphy 7世」名義でSIGBOVIK 2025という学術ユーモア会議で命名しました。
しかし、これらが本当に「自分と同じ形のコピーを通せる穴を持たない立体」なのか、それとも「コンピューターが見つけられないだけ」なのかは、誰にも証明できません。
立体の向きには無限のパターンがあります。
コンピューターはその中の有限個しかチェックできません。
「いくらやっても見つからない」と「絶対に存在しない」のあいだには、深い溝があるのです。
「これがあるかもしれない、ないかもしれない」――そんな過渡期的な状況が数年間続きました。

