我那覇和樹のドーピング冤罪問題が大きく動いた2007年11月。再審の場を求めた関係者の願いは、Jリーグの“仲裁拒否”によって突然断ち切られた。その矢面に立った鬼武健二チェアマンは会見で「FIFAに申し立てるのがふさわしい」と説明したが、この発言には、ドーピング問題の最高責任者として看過できない重大な認識不足があった――。その裏で我那覇は、涙ながらに「今言わないと一生後悔する」と覚悟を口にしていた。『争うは本意ならねど』から一部を抜粋、編集してお届けする。
あまりに知識が欠落していた鬼武チェアマン
2007年11月12日午前。我那覇と深井は川崎フロンターレのクラブハウス前で落ち合った。用件については事前に深井が伝えてあった。
我那覇は、後藤の仲裁申し立てをJリーグが受諾することを望む意思を明確に発信した。昨夜のことを知るよしもなく、従順と思われていた我那覇のいきなりの変貌に川崎側の驚きは小さくなかった。
深井が来ていたことで、この男がおとなしいガナをたきつけたのだとの誤解をした職員もいて、以降、深井は川崎に行くたびに針のむしろのような環境に置かれるが、何も話さずひたすら冷たい視線に耐えていた。
時間をかけての話し合いの末、川崎の担当は、「Jリーグに伝えてみる」と言い、席を外した。午前中であった。
しかし、動きだした歯車は止まらなかった。
Jリーグは同12日午後2時にJSAAに対し、申し立てに合意しないことを文書で返答した。同時にマスコミに会見した鬼武チェアマンは、処分された川崎と我那覇が裁定やり直しを希望していないので、処分されていない後藤医師の申し立てを受ける必要はないとコメントした。
13日、各新聞はいっせいに「Jリーグ仲裁不同意」と伝えている。後に、ここの行き違いを、川崎は確かにJリーグに我那覇の意思を午前中のうちにファックスで伝えたと言い、Jリーグ側はチェアマンの会見前には届いていなかったと主張。
水掛け論になっているが、結果として我那覇の大きな決意は報われることなく空振りに終わってしまう。
独自に鬼武チェアマンを取材した東京新聞はこう報じている。
「鬼武健二チェアマンは、合意しなかった理由について『当事者であるJリーグと我那覇選手、川崎との間で解決済みの問題』とし、処分を科していない前ドクターは当事者でないことを強調。
紛争解決を行なうJSAAの仲裁対象には当たらないとの認識を示した上で、『ドーピングか否かを問うのであれば、国際サッカー連盟(FIFA)に申し立てるのがふさわしい』と説明した」
ここに及んで鬼武チェアマンはFIFAが各国のアンチ・ドーピング機関が下したドーピング違反の裁定の仲裁をする機関ではないということを理解していなかった。
具申をしない側近にも責任があるのであろうが、鬼武はドーピング問題を扱う最高責任者としては、あまりに知識が欠落していた。
本来ならば、資質を問われてもおかしくないコメントであったが、メディアは言及をしていない。軒並み〝客観報道〟の中、唯一、沖縄タイムスが、「決断疑問」という見出しで矛盾を突いている。
「Jリーグの鬼武チェアマンは我那覇のドーピング禁止規程違反で、ドーピングコントロール委員会と制裁を決めたアンチ・ドーピング特別委員会のメンバーの多くが重複していたことなど、手続き面で『Jリーグの組織が完璧でなかった』と認めた。
その上で違反判定の『結論は変わらない』と強調した。関係者に懲罰を与えるドーピング違反を扱う手続きに不備があることは重大な問題ではないのか。それでもJリーグが自らの判断に自信を持っているならば、仲裁の場で主張するのが当然だろう。
申し立てを受け入れない主な理由に後藤医師が処分対象でないことを挙げたことは、説得力に欠ける。Jリーグは5月に処分を下した際に、『ドクターの責任は重大である』と指摘しており、違反にかかわったとされた後藤医師は当事者と考えるのが自然だ」
我那覇が自ら文書を作成した声明文
Jリーグは仲裁を受けなかった。職を辞した後藤の覚悟は空転した。
後藤の仲裁申し立て受諾をJリーグに望む我那覇の声が各紙に載ったのは、1日が経過した14日であった。最も大きなスペースを割いたのは日刊スポーツ。
「我那覇がドーピング問題の仲裁不成立に涙で訴え」
1810字の記事の中では、
「川崎Fは事前に本人の意思を確認し、処分を受け入れて、事態を収束させる方向でまとまっていた。だが、我那覇は『納得できないでモヤモヤしていた。この場で言わないと、一生後悔すると思ったので発言しました』とコメント。
12日午前に、チーム側に意思を伝え、マネジメント事務所関係者を交えてクラブハウスで会談していた。川崎Fは7日に、仲裁申し立てをしない理由を公表。
申し立てた場合、国際サッカー連盟(FIFA)、世界アンチ・ドーピング機構(WADA)から我那覇に独自の追加処分(出場停止1~2年)が下される可能性があるとし、我那覇のために、リスクを避けると説明してきた。
しかし、我那覇は『僕はそれ(出場停止)を覚悟してやっていきたいと思う。チームと対立はしたくない。チームが意見を聞いてバックアップしてほしい。もう一度、仲裁の場があればいいし、白黒はっきりさせたい』と続けた。話しているうちに涙を流し、声を詰まらせながら、自分の考えを絞り出した」
同日、我那覇は自ら文書を作成し、関係者に配布した。自分の言葉を自分で記した朴訥な文面であった。
関係者の皆様
さる5月8日、自分に下された裁定や処分の内容はよく理解しています。これまで何度も、納得しよう、忘れようと努力してきました。一方で、色んな報道や、今回の仲裁申し立てを見て、自分がドーピング違反を犯したとは、どうしても思えなくなりました。
ギリギリまで悩みましたが、自分は違反をしていないんじゃないかという気持ちを持っていた事や、たとえ自分により大きな処分が下るリスクが有っても、今回の仲裁の場を通じて、本当に自分がドーピング違反を犯したのかどうかが明らかになって欲しい気持ちを持っていたことを、今言わないと一生後悔すると思い話しました。
家族にもサポーターにも胸を張って生きていけるよう、この機会に意思を伝えようと思いました。自分の本当の気持ちを確かめるのに時間を要し、Jリーグ及び関係者の皆様をお騒がせしてすみませんでした。
今後どうするかは、具体的には決めていませんが、クラブと充分話し合って行きたいと思います。もし、今回の仲裁のような機会が訪れるなら、是非真実が明らかになって欲しいと思っています。チームが自分の事を考えて下さっていることも有り難く思っています。
これまで通り、Jリーガーとしてフロンターレの一員として、チームのために頑張っていきたいと思っています。
2007/11/14 川崎フロンターレ 我那覇和樹
ブログなどでサポーターに向けて近況を報告するのとは全く異なり、声明文というべき性格のものを書き上げることには慣れていない。漢字の開きが少ないことからもパソコンに慣れていないことがうかがえる。
しかし、借り物の言葉ではない本音の覚悟がそこには渗み出ていた。問題が飛び火することを考え、あえて他の選手の医療のためにも、とは一行も書かなかった。
文/木村元彦
争うは本意ならねど(集英社公式サイトhttps://books.shueisha.co.jp/cbs/c2082/c290-26384/にて26年5月6日まで無料公開中)

