
東京理科大学で行われた研究により、物質である電子と反物質である陽電子という本来なら出会うと対消滅して消えるこの2つが、消える前に「ひとつの粒子」として量子的な「波」として振る舞うことが実験的に実証されました。
研究では電子と陽電子のペアが発射され、二重スリット実験の親戚にあたる回折実験に投入されました。
電子と陽電子のペアは生まれてから平均でわずか142ナノ秒(10億分の142秒)のあいだに対消滅してしまう、この世で最もはかない存在のひとつです。
しかし対消滅までの刹那の間、ペアになった両者はバラバラの2つの波として揺れていたのではなく「ひとつ」として量子的な波を作った証拠が実験的に得られました。
出会えば消える運命の2つの粒子に何が起きたのでしょうか?
研究の詳細は2025年12月23日付で学術誌『Nature Communications』に掲載されています。
目次
- 電子と陽電子は、消える前に“ひとつ”だった
- 物質と反物質のペアに起きた、奇妙な一体化
- なぜ物質と反物質が「ひとつの波」になれるのか
- 弱点だらけだからこそ、未来の物理を開く
電子と陽電子は、消える前に“ひとつ”だった

量子力学の中心には「粒子は波でもある」という奇妙な原理があります。
この原理を最もわかりやすく示すのが二重スリット実験です。
壁に2つの細い隙間を開けて粒子を飛ばすと、向こう側に明暗の縞模様が現れます。
これは波が2つの隙間を同時に通り抜け、互いに強め合ったり打ち消し合ったりする「干渉」の証拠です。
粒子なのに波のように振る舞う──この発見が量子力学の出発点になりました。
じつは、この二重スリット実験には「親戚」がいます。
スリットの代わりに、原子が規則的にびっしり並んだ結晶に粒子を通す方法です。
規則的な格子も波を振り分ける働きをするため、二重スリットと同じ原理で干渉のパターンが現れます。
こちらは「回折」と呼ばれます。
電子で「粒子は波」を示す実験としては、この結晶回折のほうが先輩格です。
1924年、フランスの物理学者ド・ブロイが「あらゆる粒子は波としての性質を持つ」と提唱しました。
その3年後の1927年、アメリカのデイヴィソンとガーマーがニッケル結晶に電子を当てて回折パターンを観測し、物質波の存在を世界で初めて実証しました。
電子の二重スリット実験が実現するのはそれから34年後の1961年のことですから、結晶回折は二重スリットの「兄」にあたる実験と言えるでしょう。
この「粒子は波でもある」がどこまで通用するのか、物理学者たちは100年かけてひとつずつ確かめてきました。
電子のあと、ヘリウム原子や中性子、さらにはフラーレンというサッカーボール型の巨大分子でも、波としての振る舞いが確認されました。
1980年には反物質である陽電子も結晶で回折することが確認され、2019年には陽電子だけで干渉計実験まで実現しています。
ところが、「物質+反物質のペア」という組み合わせだけは、空欄のままでした。
私たちの体をつくっている電子には、「陽電子」という双子のきょうだいがいます。
質量はまったく同じ。
電荷だけが正反対。
いわゆる反物質です。
物質と反物質が出会うと対消滅する──SFでおなじみの設定ですが、じつは出会った瞬間にドカンといくわけではありません。
電子と陽電子がちょうどいい条件で近づくと、互いの電荷に引かれて結びつき、共通の重心のまわりをぐるぐる回り合うペアになります。
宇宙空間で質量の等しい2つの星が引力で結ばれ、互いを中心に踊り合う二連星──そんなイメージです。
こうしてできる束の間のペアが「ポジトロニウム」です。
ただし、二連星と決定的に違う点があります。
二連星は明確な軌道を描くので、互いがぶつかることは基本的にありません。
しかし量子力学の世界では、粒子は「確率の雲」としてぼんやり広がって存在しています。
電子の雲と陽電子の雲は、束縛されているあいだ常にある程度重なり合っており、「2つの粒子が同じ場所に居合わせる」確率がゼロにはなりません。
といっても、雲の重なりそれ自体はとくに珍しいことではありません。
電子どうしは同じ原子のなかで複数共存していますし、原子核と電子もずっと雲を重ね合わせたまま安定しています。
雲が重なっているだけでは、ふつう何も起こらないのです。
しかし物質と反物質の組み合わせだけは別格です。
電子と陽電子のあいだには、出会うと対消滅する、という反応経路が、自然界にもともと用意されています。
雲が重なり合っているあいだ、ポジトロニウムはこの反応経路の入り口に常時居続けている状態にあるのです。
ある瞬間に対消滅が起こる確率はごくわずか。
しかし、ゼロではありません。
そしてゼロでない確率は、コインを何億回も投げ続ければいつか必ず表が出るように、時間さえ経てば必ず実現します。
ポジトロニウムの場合、その「いつか」が平均して142ナノ秒(10億分の142秒)で訪れます。
(※ポジトロニウムにはもうひとつのタイプもあり、そちらは平均125ピコ秒(1兆分の125秒)というさらに短命で消えてしまうのですが、今回の実験で利用されるのは長持ちするほうの「142ナノ秒タイプ」です。)
人間にとっては142ナノ秒も一瞬ですが、この超短時間のあいだに、ポジトロニウムは確かに物質と反物質の複合体として存在しています。
原子核と複数の電子から成る原子や、フラーレンのようなより多くの原子核と電子からなる巨大分子が1つの波として振る舞うなら、物質と反物質の刹那の複合体も1つの波として振る舞う瞬間があるのか?
これまでそれを確かめることはできていませんでした。
そこで今回、東京理科大のチームは100年前に始まった量子力学の物語で、ポジトロニウムに残っていた重要なピースを埋めるべく実証実験を行うことにしました。
物質と反物質のペアに起きた、奇妙な一体化

「電子1個と陽電子1個のペア(ポジトロニウム)」を「波として観測する」と一言で言うのは簡単ですが、実験的にはハードルの高い試みです。
まず最大の壁は、ポジトロニウムが電気的に中性であることです。
電子なら電場をかければ加速でき、スリットなりグラフェンなりに向かわせることができます。
しかし電荷がないものは、電場では加速できません。
二重スリットなり結晶なりを先に用意していても、発射できなければ実験は成り立ちません。
そこで研究チームは離れ業を使いました。
ポジトロニウムにもうひとつ電子をくっつけて、全体としてマイナスの電荷を持たせるのです。
マイナスにしてしまえば電場で加速できます。
ただこのままでは観測対象にしたい「電子1個と陽電子1個のペア(ポジトロニウム)」ではありません。
そこで加速し終わったところでレーザーを当てて、余分な電子だけをきれいに剥がすことにしました。
ビームの標的には、炭素原子が規則正しく並んだ極薄のシート「グラフェン」を使いました。
波がこうした規則的な構造を通り抜けると、特定の方向に強め合うパターンが現れます。
原理は二重スリット実験と同じ量子干渉です。
ただし、ここからが本番の苦行でした。

検出器に届くポジトロニウムは1秒にわずか0.01〜0.02個。
コーヒーを1杯飲んでいる間に、ようやく1個届くペースです。
しかも装置のメンテナンスも過酷でした。
グラフェン表面は数時間ごとにレーザーで汚れを焼く必要があり、レーザー系自体は一晩冷ます必要があり、陽電子を扱いやすい速度に整える装置(モデレーター)も数日ごとに再生が必要──。
こうした作業の合間を縫って観測を続け、エネルギー3.3 keVのビームで210時間、2.3 keVで370時間。
のべ約2年の歳月が費やされました。
そしてついに、膨大なデータの中から小さなピークが浮かび上がりました。
肝心なのは、検出器のビーム中心からどれくらい離れたリング上にピークが強く出ているか、です。
ポジトロニウムビームがグラフェンを通り抜けると、回折信号はビーム軸を取り囲むようなリング状の分布として現れます。
この輪の半径こそが、本研究のすべてを決定づけました。
物質が波として振る舞うとき、質量が重いほど波長は短くなります。
そして波長が短ければ、強め合う輪は中心に近い位置に現れます(逆に波長が長ければ外側に膨らみます)。
もしペアが「ひとつの粒子」として波打つ場合、輪の半径は8.1ミリ。
しかし電子と陽電子がバラバラの粒子として波打っていた場合、輪の半径は倍の16.2ミリに膨らみます。
3.3 keVのビームで観測されたピークの位置は、実測値8.4ミリ。「8.1ミリ」の予測におおむね一致しました。
一方、16.2ミリには目立つピークは見られませんでした。
念のため、ポジトロニウムビームを発射するエネルギーを最初の3.3 keVから2.3 keVに落として、もう一度測定しました。
エネルギーを変えても予測通りの振る舞いが再現されるか、念入りに確かめるためです。
このときの理論予測は、輪の半径が9.7ミリ。
3.3 keVのときの8.1ミリより、少し外側に押し広げられた値です。
そして観測されたピークは10.0ミリ。
誤差の範囲内で一致しました。
エネルギーを変えても、やはり「ペア全体としてひとつの波」として振る舞うという予測が、きれいに再現されたのです。

