
手術を受けるとき、麻酔の注射を打たれた瞬間、私たちの意識はぷつりと途切れます。
気がついたときには手術は終わっていて、そのあいだのことは何ひとつ覚えていない──そんな経験をされた方も多いと思います。
では、その「何も覚えていない時間」のあいだ、私たちの脳の中では、いったい何が起きているのでしょうか。
これまで多くの研究者は「脳もほぼ眠ったような状態になっている」と考えてきました。
ところが、アメリカのベイラー医科大学(BCM)で行われた最新の研究によると、麻酔で意識を失っている患者さんの脳の中では、流された物語の言葉が一つひとつ解析され、その意味や品詞などの文法的な手がかりまで読み取られていたというのです。
意識を失っているあいだの脳は、これまで思われていたよりも、ずっと多くの仕事をこなしていたのかもしれません。
研究内容の詳細は2026年5月6日付で、科学雑誌『Nature』に掲載されました。
目次
- 麻酔で意識がない間も脳は音に反応していた
- 麻酔中の脳は物語の言葉に反応し、次の言葉の手がかりまで持っていた
- 意識とは何か──舞台裏で動いていた脳
麻酔で意識がない間も脳は音に反応していた

・なぜそんな実験ができたのか
研究を率いたのは、ベイラー医科大学の神経外科教授サミール・シェス博士のチームです。
舞台となったのは、脳の奥深くにある「海馬」と呼ばれる小さな器官でした。
タツノオトシゴのような形をしていて、左右にひとつずつあります。
役割を一言で言えば、脳内の「記録係」のような存在です。
今日あった出来事を整理し、長期の記憶として保存する仕事を担っています。
最近の研究では、それだけでなく、言葉の文脈を読み取る働きにも関わっていることが分かってきました。
ただし海馬は、耳から入った音の信号が届くまでにかなり遠回りする、いわば脳の「奥座敷」のような場所にあります。
だからこそ研究者たちは「麻酔で意識が落ちれば、海馬への信号はかなり弱まるはずだ」と考えていました。
ところが、その想定は外れたのです。

いったい、海馬では何が起きていたのか。
それを確かめるためには、頭蓋骨を切り開き脳に直接電極を刺すような特殊な状況での実験が必要でした。
もちろん、こうした実験は誰にでもお願いできるものではありません。
協力を仰いだのは、薬では発作を抑えきれない重いタイプの「てんかん」を抱える7人の患者さんでした。
このタイプのてんかんでは、最後の選択肢として「発作の発生源になっている脳の一部を、外科的に取り除く」手術が行われることがあります。
研究チームは患者さんの同意のもと、「どのみち取り除く予定の組織です。手術の直前の数十分だけ、研究のために脳の活動を記録させてください」と申し出ました。
健康な人にはとても頼めない実験が、この特殊な事情だからこそ実現したわけです。
記録に使われたのは、「ニューロピクセル」というごく細い針のような装置でした。
髪の毛より細い針の表面に、384個もの電極(電気信号を拾うセンサー)がびっしりと並んでいます。
どれくらい高性能かというと──従来の脳波計が「満員の劇場の外から、ざわめきだけを聞いている状態」だとすれば、ニューロピクセルは「劇場の中に入って、観客ひとりひとりの声を録音できる」くらいの違いがあります。
脳の細胞(ニューロン)がひとつずつ発する微かな電気信号を、別々に聞き分けられるのです。
この装置をヒトの海馬に挿入したのは、これまでに例のない試みでした。
患者さんたちはその後、麻酔がかけられますが、研究者たちにとってはここからが本番でした。
・単純な音にも「学習」していた海馬
研究は2つの実験に分かれています。
まずは比較的シンプルな方から。
研究者は、麻酔でしっかり眠っている3人の患者さんに、低い音と高い音の2種類を聞かせました。
普通に流れる音のあいだに、ときどき「仲間外れの音」をこっそり混ぜる、というシンプルな仕掛けです。
すると、麻酔下の患者さんの海馬のニューロンたちは、その「仲間外れの音」にちゃんと反応していました。
そして、もっと驚いたことがあります。
その反応が、10分かけて少しずつ鮮明になっていったのです。
最初は曖昧だった「ちがう音への反応」が、刺激を続けているあいだに、だんだんと明確になっていきました。
これは脳科学で「可塑性」と呼ばれる現象──つまり脳が経験に応じて自らを書き換えていく、しなやかな性質を示しています。
10分かけて何かを学ぶ。
それは普通、目を覚まして集中している人がなにかを練習するときに見られる時間スケールであって、麻酔下の脳で観察されるとは、誰も思っていませんでした。
意識のない脳が、その短いあいだに、ある種の「学習に近い変化」をしていた。
「意識がなければ脳は単純な反射しか起こさないはずだ」──そんな従来の見方を、今回の結果は揺さぶったのです。
しかし驚きはそれに留まりませんでした。
麻酔中の脳は物語の言葉に反応し、次の言葉の手がかりまで持っていた

4人の患者さんには、もっと複雑なものが流されました。
アメリカで人気のあるストーリーテリング番組「The Moth(ザ・モス)」の自伝的な物語などが、合計10〜20分にわたって再生されたのです。
別の患者さんには、宇宙について語る教育動画も使われました。
研究チームは、患者さんの海馬にある数百個のニューロンが、物語の単語ひとつひとつにどう反応するかを、こと細かに記録しました。
すると、3つの驚きの事実が浮かび上がってきます。
① 単語によって、海馬の反応がはっきりと変わっていた
「家」「行く」のような日常的によく使う言葉と、めったに登場しない珍しい言葉とでは、海馬のニューロンの反応パターンが明確に違っていたのです。
実際の数値を見ても、よく使われる単語ほど海馬の細胞が強く発火する傾向が、はっきりと出ていました。
これは音の高低に反応していたのではありません。
脳が単語ごとの意味的な違いを捉えていた、ということです。
② 似た意味の単語には、似たパターンで反応していた
「犬」と「猫」のように意味の近い単語に対しては、海馬のニューロンも近いパターンで反応していました。
一方で「犬」と「ペン」のように意味の遠い単語に対しては、反応のパターンも大きく違っていたのです。
これを裏付けるために研究者が使ったのが、AIの世界で発達した「単語の意味を数字の組で表す技術」でした。
意味の近さを数字の距離として測れる仕組みで、その「意味の地図」と海馬の反応がきれいに対応していたわけです。
単に音に反応していたのではなく、言葉の意味のレベルで処理が起きていたという強い証拠になりました。
③ 単語の文法的な役割まで読み取れた
それぞれの単語が名詞なのか、形容詞なのか、副詞なのか──ニューロンの反応パターンから、その単語が文の中で果たしている役割まで読み取ることができました。
麻酔下の脳は、単語の文法的な役割という、文の組み立ての一部までつかんでいたわけです。
そして、もっとも興味深いことがあります。
こうした「意味の処理」の精度は、過去の研究で目を覚ましていた患者さんを測定した結果と、ほぼ同じレベル、一部の指標ではむしろ高めの値も見られたほどだったのです。
「意識を失った脳は能力的に劣っているはずだ」というイメージを、今回の数字は静かに覆します。
論文の共著者ベンジャミン・ヘイデン博士はこう語ります。
「こうした処理は、私たちが目を覚まして注意を向けているときに起こるものだと考えられてきました。それが、無意識の状態で起きていたのです」。
眠った脳が「次に来る言葉」を予測する
もうひとつ、研究チームが見つけたことがあります。
現在処理している単語のニューロンの活動には、「次に来る言葉」に関する情報まで含まれていた、というのです。
これだけ聞くと、つい「脳が次の言葉を予測していた」と書きたくなります。
実際、一部のニュースではそう紹介されています。
けれども、論文の著者たちは「これは能動的な予測そのものとは限らず、文脈化で説明できる現象だ」と慎重に述べています。
「今日はとても天気が」と聞こえてくると、私たちの頭には自然と「いい」「悪い」「不安定だ」といった候補が、なんとなく浮かんできます。
これは「次の単語を当てよう」と意識して予測しているわけではありません。
これまで聞いてきた言葉が脳の中で文脈をつくり、その文脈が結果として次の方向をぼんやりと示している、という性質のものです。
麻酔下の海馬で起きていたのは、まさにこの「文脈ができている」状態でした。
AIが文章を書くときに「文脈に基づいて次の単語の確率を計算する」のと、確かに似た性質ではあります。
けれども「能動的に予測している」とまでは言えませんでした。
「今日はとても天気が」という言葉から脳が「いい」「悪い」「不安定だ」という言葉を思い浮かべることはあっても、それを超えて「今日の天気を踏まえた季節特有の気象現象」まで勝手に(能動的に)話を広げるような動きはないわけです。
一方で興味深いことに、実験を受けた患者さんは、誰ひとりとして、術中に流された音や物語のことを覚えていませんでした。
術後ケアユニットでの聞き取りでも、翌日の回復期での聞き取りでも、「あの音や物語が聞こえた気がする」「あんな話を聞いた覚えがある」と語った人はいなかったのです。
海馬では確かに言葉の処理が走っていた。
けれど、それが「思い出せる体験」「意識的な記憶」として成立することはなかったというのは非常に示唆に富みます。

