少年としての菊田一夫
河合 素晴らしいと思ったのは、まさに今おっしゃった菊田一夫の精神を小川さんが「少年」というイメージで表現されていることです。少年が菊田一夫ではないかと、「台湾の地で三軒の家をたらい回しにされたあと、大阪に奉公に出され」たというエピソードのあたりでピンときました。また、少年は『風と共に去りぬ』に出演する馬ジュラク号に親しげに接しています。ということは、彼がいるのは日本初演時の一九六六年なのかと思ったら、次の瞬間、『エリザベート』の稽古の様子が描かれる。『エリザベート』が帝劇で上演されたのは二〇〇〇年以降なので、つまり彼は時空を飛んでいることになるわけです。この自由さはまさに小説のなせる業と感服したのですが、なぜ菊田一夫を少年として描こうと思われたのですか?
小川 『評伝 菊田一夫』(小幡欣治)に、渡辺保さんが聞いた菊田さんの言葉として、「私は立派な芸術をつくりあげてゆける作家ではありません。だが、しかし、人生の隅っこで誰からも話しかけて貰えないような子供たちの心や頭を撫でてやって……死なずに生きてゆけ、元気を出せ……と話しかけるための言葉は、私以外に誰が知っているでしょうか」(『求めてやまないもの』)と書かれていました。それを読んで、もしかしたら、菊田一夫自身がそうされたかったのではないかと思ったんです。お芝居を作ることで、母親の愛を知らずに育った自分の背中を撫でてもらいたかったんじゃないかなと。彼の欠落をそのまま少年というイメージで描きました。
河合 それを知るともう一度読み返したくなりますね。
小川 少年としてイメージすると、彼が食堂係のナターシャさんからもらった人参を馬にあげている想像も湧いてきました。
河合 食堂で働いているナターシャさんも実際にいらっしゃった方なのですか?
小川 はい。日本人なのですが、森繁久彌さんがナターシャさんと命名したそうです。帝国劇場のみなさんに慕われていたようで、森公美子さんはマイ包丁を持参して食堂のお手伝いをしていたとおっしゃっていました。メンチカツのときにはナターシャさんの横でキャベツを千切りにしていたとか。
消えゆく記憶を書き残す
河合 かつての帝劇では二、三ヶ月のロングラン公演があるとみんなそこに住み込んでいたそうですから、そういうこともあったんでしょうね。でも現在はそんなに長い公演はなくなりました。若い役者さんはきっとそういう情景を知らないでしょうね。
小川 そうみたいですね。でもまだ当時のことをおぼえている方はいらっしゃって、私のイメージは思い出話のリアリティに支えられています。たとえば今回、森繁久彌さんの付き人だった女性にもお話を聞きました。
河合 「サークルうてな」に付き人のつき美さんが出てきますよね。そのモデルになった方ですか?
小川 そうです。その方から、「座長」と呼ばれる人たちはいかに目配りが利いたかを教えてもらいました。今は一座や座長というもの自体がまれになっていますが、かつて帝劇には森繁さんはじめ、山田五十鈴さん、佐久間良子さんたちがいらっしゃいました。「知床旅情」が大ヒットしたときには北海道から大量のイクラが送られてきて、それをなんと魔法瓶に入れて、お腹を空かせている若い役者さんや裏方の方々に分けてあげていたとか。
河合 そういう時代があったんですね。でも思い出話を語れる人もだんだん少なくなってきたでしょう。帝劇の建物だけじゃなく、記憶自体が消えていくのはとても寂しいですね。
小川 私もそう思います。帝劇は去年の二月二十八日にクローズしましたが、若い役者さんは、舞台が終わることに慣れているからセンチメンタルな感情にはなりません、と最後の日におっしゃっていました。でも、市村正親さんは自分のように帝劇に汗も涙も染み込ませてきた人間からすれば、あらゆる場所にその痕跡を感じ取るから感傷に溺れてしまうんだと語っていましたね。
河合 まるで小川さんの『密やかな結晶』のような話ですね。かつて慈しんだものがどんどん薄れていく。言葉にならない悲しさがありますね。
小川 そもそも芝居というものが刹那的ですからね。俳優さんに初演より再演の方が楽ですか? と聞くと、そんなことはないとおっしゃっていました。毎日同じ演目をやっていても、昨日と全く同じように演じるのは不可能だと。体調も違う。心境も違う。お客さんも違う。芝居には再現性があるようで実はないということなのですが、だから観客は楽しめるのかもしれません。

