“運動しなければ”と思いながら、なかなか始められない人は多い。暑い寒い、雨が降る、暗い道は不安、時間がない。小さな障壁が重なるだけで、運動は「やる人だけがやるもの」になってしまう。
そのハードルを、日常の空間ごと組み替えることで下げようとする取り組みがある。ショッピングモールの館内を活用したランニングイベントだ。冷暖房が整い、床はフラットで明るく、安全面の不安が少ない。初心者や体力に不安のある人にとって“入り口”になり得る条件が揃っている。
仕掛けるのは、ランニング専用のSNSアプリを軸に、ランニングがもっと自由に、楽しくなるサービスを進めるRuntrip代表であり、元箱根駅伝のランナーでもある大森英一郎さん。モールで走るという一見ユニークな企画は、思いつきではなくデータ分析から導かれた「帰結」だった。スポーツを「競技」から「日常の楽しみ」へ広げる発想は、健康・地域・人材の循環をどう変えるのか。背景を聞いた。
「数字の圧力」から自由に──この10年で変わったランニングの空気
イオンモール太田の営業時間前に行われたランニングイベントの様子。季節や天候を問わず快適に走ることができる。先頭で旗を持ち走るのが大森さん(写真右)「当初、市民ランナーの会話の中心にあったのは月間走行距離とフルマラソンのベストタイムでした」
Runtripが創業した2015年からの10年間を振り返り、大森さんはそう話す。挑戦や限界突破を称える文化は尊い。しかし、その価値観が強いほど、初心者は入口でつまずきやすい。
「数字が前提になると、走ること自体のハードルが上がる側面がある。そこを変えたいと思いました」
この10年で、走ることを取り巻く空気は変わった。その転機として大森さんが挙げたのがコロナ禍である。
「健康への意識が大きく置き換わりました。以前よりも健康的なライフスタイル自体が重要視されるようになったことが後押しした感覚があります」
運動は“特別な人の習慣”から、“生活を整える手段”へ。ランニングでも家族で大会に出たり、子どもが短い距離に参加したりと、楽しみ方も広がっている。
記録を目指す楽しさは大切にしつつ、タイムだけに縛られない魅力もある。そのバランスをどう伝えるか。大森さんは陸上競技とランニングを「似て非なるもの」と言う。
「陸上競技は競技なので、1秒でも早く、数字を出すことが目標です。でも、その価値観がすべてのランナーに置き換わるわけではない。記録更新も楽しみの一つだけれど、もっとランニング自体を楽しんでいただける人が増える取り組みをして行きたい」
運動データの分析から楽しく継続できるイベントを企画
フードコートも開放。走った後の食事やショッピングもダイレクトに移動することなく楽しめるそういったランニングの魅力をさまざまに伝える企画を行う中で生まれたのが、ショッピングモールを使ったランニングイベントだ。インパクトのある企画に反して、大森さんは「最初から館内を走るつもりだったわけではない」と強調する。
Runtripのアプリ利用者の運動データを数万規模で分析し、「どういう人が行動変容して、どうなると継続するのか」に注目した。その結論がリワード(特典)とコミュニティだったいう。
走ることでポイントや特典が得られるリワード。走ったことを投稿し、承認されるコミュニティ体験。努力や根性ではなく、自然に続く環境を設計する。
「我慢や嫌な気持ちだけだと継続は難しいものです。楽しいと行動変容して、継続できる。いかに楽しむかが重要です」
この考え方を地域の健康づくりに結びつけたのが、Runtripとイオンモール太田(群馬県太田市 )が2024年に協業を開始した「ハピネスランクラブ」である。
地域住民が気軽に参加できるグループランイベントの開催や、イオンモールで使用できるクーポンの配布、アプリを活用した交流など、健康的なランニングライフをリワードとコミュニティに特化しながらサポートしている。
大森さんは「イオンさんが“ハピネスモール”として地域住民のウェルビーイングに貢献する方針を掲げていた中で、我々のミッションともビジョンともマッチすると思いました。ただ最初から館内を走るということが決まっていたわけではなく、周辺住民が集まれる場を作ろうとしたときに最適化した結果が「館内」でした」と話す。
館内ランは決して話題性優先のアイデア勝負ではなく、目的(行動変容)に対する場の最適解として導かれた“帰結”だった。
