壁越しに聞こえてくる音色
隣室から、かすかにヴァイオリンの音が聞こえるようになったのは、いつ頃からだったでしょうか。とても小さな音で、最初は気にも留めていませんでした。
ところがある日、若い頃に私が好きだった旋律が、その隣室から流れてきたのです。長くしまっていた記憶が一気に押し寄せ、台所で立ち尽くしてしまいました。それ以来、音が聞こえるたびに、自分が捨ててきたものの輪郭がはっきりと浮かんでくるようになったのです。
私は若い頃ピアノを習っていました。長く続け、ささやかな発表会にも出ていたのです。結婚と育児でやめてから40年余り、夫の帰りも遅く、日中はずっと物音のない時間を過ごしていました。
便箋に書きつけた言葉
何度も「うるさい」と思おうとしました。そう思えば、相手を責められる気がしたのです。けれど本当のところは違っていました。音色そのものが、私の心を引きずり出してしまうことが苦しかった。それを正直に言葉にする勇気が、当時の私にはなかったのです。
ある夜、便箋を取り出して書きつけました。
「マンションで楽器なんて常識がない。すぐにやめてください」
書きながら、自分でも嫌な人間だと思いました。けれど、もうあの音を聞き続けることに耐えられなかったのです。
翌朝、隣室のポストに差出人を書かずに投函しました。それからしばらく、隣室から音は聞こえなくなりました。安堵と罪悪感が、私の中で日々入れ替わっていたのです。
