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自民党の政治とカネ問題の40年史…なぜ何度も繰り返されるのか? 元副総裁の山崎拓が指摘する自民党が変わらない理由

自民党の政治とカネ問題の40年史…なぜ何度も繰り返されるのか? 元副総裁の山崎拓が指摘する自民党が変わらない理由

国鉄改革、電電公社民営化、規制緩和…。中曽根康弘が推し進めた「官から民へ」の規制改革は、リクルート事件に象徴される新たな利権を生み、政治とカネの問題をより複雑にした。小泉純一郎、安倍晋三そして現在の高市政権まで続く「政治とカネ」の問題は、なぜ繰り返されるのか。

戦後政治の焦点としての中曽根時代、終生のライバル・田中角榮との対立、北朝鮮との国交正常化構想、そして現政権に至る自民党保守の変質を、山崎拓元副総裁の証言から読み解く。

「官から民へ」が変えた日本

中曽根康弘は米大統領のロナルド・レーガンが進めた行政の民間企業開放政策に追従し、英首相だったマーガレット・サッチャーの提唱した原理的な市場競争を歓迎してきたといわれる。

小さな政府への転換を訴えるその規制改革は、小泉純一郎や安倍晋三に引き継がれ、あたかも日本社会が成長するために必要不可欠な政策であるかのように受け止められてきた。

2009年に自民党から政権を奪取した民主党も「官から民へ」というキャッチフレーズの下、行政の規制撤廃へと突き進んだ。その後、民間による市場競争原理主義ははやがて弱肉強食の色合いの濃い新自由主義政策として批判の対象になる反面、日本の為政者の多くは今も規制緩和が足りないと主張する。

三公社五現業の解体を進めた中曽根は、そんな現在の日本社会の原型をつくったといえる。国鉄や日本航空の改革しかり、日本電電公社や日本専売公社の民営化しかりだ。

一方、田中角榮は米英追従の市場開放政策にあらがおうとする。田中は日本最大の労働組合として聞こえた国鉄労働組合(国労)本部中央委員の細井宗一の戦友だった。二人はともに新潟県出身で生まれ年も同じである。

太平洋戦争当時、大日本帝国陸軍騎兵第3旅団第24連隊の士官候補生だった細井は、たまたま徴兵で入隊してきた田中と出会い、軍隊生活の面倒を見たといわれる。

その二人の道は終戦を迎えて分かれた。田中は自民党入りし、細井は国鉄に入社して国労を統率するようになる。高度経済成長を経て先進国の仲間入りを果たし、保革の対立した1955年政治体制にあってなお、二人の仲は変わらず続いた。

田中は労働組合問題で細井に相談し、細井は目白の田中邸にフリーパスで出入りしてきたという。自民党族議員の象徴のような田中が、今なおバランス感覚のある穏健保守のように評価されるのは、欧米一辺倒ではないアジア外交に重きをおいたからかもしれない。

田中角榮が止めようとした国鉄改革

そんな田中の率いた自民党最大派閥という巨大な壁は、米国の開放圧力に押されて欧米流の市場開放路線に乗ろうとした中曽根内閣に立ちはだかった。

1982年11月に発足した中曽根内閣は、首相を退任した闇将軍の田中に支配され、田中曽根内閣と揶揄されるほど、田中の影響下にあったといえる。最もわかりやすい例が国鉄の分割民営化だ。田中は自民党内の運輸族議員を束ね、国鉄分割論に反対してきた。

しかし折しも、竹下登、金丸信という田中派の腹心たちの造反により、政界の潮目が変わる。

ロッキード事件のあと、日本古来の業界や行政との癒着がもたらしてきた金権政治への反発が高まっていた渦中の出来事である。

腹心の造反にショックを受けた田中は脳梗塞に倒れ、中曽根はようやく田中支配から逃れた。国鉄は87年4月に分割民営化され、国労は事実上解体された。ここから官公労を支持母体にする日本社会党も衰退していく。日本の労働組合が一大転機を迎えた瞬間といえる。

表向き保革勢力が対峙したとされる55年体制はその実、従来の行政や労働組合の利権を背にした馴れ合い政治にすぎなかった。その現実がこのあたりから明らかになる。保革の馴れ合いを象徴するのが90年の金丸訪朝であろう。

田中と中曽根はある意味、自民党保守を背負った対照的な政治家だったといえる。田中は労働組合などのリベラル勢力に理解を示しながら組織・団体や行政の利権を分け合い、中曽根は市場競争経済の導入という旗印を掲げたが、そこには規制緩和という新たな利権が生まれた。

日本に限らず先進諸国がこの30年数年来、この二つの対照的な政治の狭間で揺れ動いてきたといえる。

この間、自らの世界観で国の舵を取る気概のある大物政治家がいなくなった。田中角榮師事を公言する石破茂は胆力に欠け、自らの政治姿勢が定まらずに1年で政権の座から降りたというほかない。

山崎拓(89)は、そんな対照的な自民党保守政治を率いてきた田中と中曽根という二人の政治家を目のあたりにしてきた。とりわけ中曽根との縁が深い。

首相となった中曽根は1983年5月に米国のウィリアムズバーグ・サミットで初めて英首相のサッチャーと会談し、以来、二人は何度も首脳会談を重ねてきた。山崎が中曽根とサッチャーのエピソードについて明かす。

「レーガンとの首脳会談のときは外相の安倍晋太郎氏をはじめ他の人も加わっていましたが、中曽根・サッチャー会談では『中曽根と二人だけで話したい』と言っていたサッチャーに対し、中曽根さんが『この男は私の後継者だから勉強させたい』と懇願し、私だけが同席を許されました。通訳も入れない。なので会話はすべて英語です。

おまけにサッチャーはテイクノートも許さなかった。レーガンとの会談のテーマはもっぱら冷戦時の安全保障問題でしたけれど、サッチャーは構造改革の話ばかりしていました。こっちは二人の話を聞き洩らさないよう必死でした。

中曽根さんの話すのは昔の東大英語ですから、大体わかるんです。けれど、サッチャーは典型的なKing’s Englishだから、いま一つよく聞き取れない。正直なところ、ところどころ意味不明でしたけれど、私なりに必死に記憶し、会談の様子をあとで記者会見しました」

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