姪・甥、妻子30余名……「秀次事件」の戦慄
しかも、悲劇はそれだけでは終わらなかった。
長男・鶴松を1591年8月に失った秀吉は甥の豊臣秀次を養子にし、同年12月に関白職を譲った。
ところが1593年(文禄2年)、側室・淀殿との間に実子・秀頼が誕生すると、態度は一変。1595年(文禄4年)7月、突然「謀反の疑い」をかけられた秀次は高野山へ送られ、わずか1週間後に切腹を命じられた。
さらに翌8月2日、三条河原では秀次の妻子・侍女ら30余名が処刑された。当時わずか数歳の幼子も含む、血塗られた粛清である。秀次が「本当に謀反を企てていたのか」については近年の研究でも異論が多く、國學院大學の矢部健太郎教授は「秀吉に秀次を殺すつもりはなかった」という新解釈を提示している。
妹さえ政治の道具に——「利用と切り捨て」の恐怖
「秀吉の"粛清体質"は身内にも容赦なかった。実妹の朝日姫は夫がいたにもかかわらず、ある日突然「離縁せよ」と命じられ、徳川家康への政略結婚に使われた。姉の“とも”の長男・秀次が処刑されたことは前述の通りだが、一族は秀吉の権力維持のための“手駒”として使い捨てにされていったのです」(歴史専門誌の編集者)
