「死んでやる!」と激昂した夫が自ら首にコードを巻き、首を吊った。その直後、妻は夫の足を持ち上げた――。一見すると自殺を手助けしたようにも見える行為だが、この女性は自殺幇助には問われなかったという。
『法医学教授が教えている 死体の授業』から一部を抜粋、編集し、あまり知られていない「自殺幇助と犯罪の境界線」を解説する。
布団に並んで死んでいた老夫婦
これまでに「同じ現場で夫婦共に死亡していた事例」を過去に何例も解剖してきました。心中、事故、不幸な偶然。いずれも理由は異なりますが、別々の人間がほぼ一緒の最期をとげること自体、決して自然なことではありません。
ある高齢の夫婦が自宅の布団に並んで寝ている状態のまま、亡くなった姿で発見されました。
当初は心中を疑いましたが、2人の寝姿があまりにも整然としており、室内には空の錠剤や薬包なども見当たりません。解剖で2人の胃の中をみてみましたが、胃の中にも薬物の痕跡は発見されませんでした。
まさか夫婦そろって偶然にも病死で亡くなったのでは、との可能性も考えましたがやはり不自然です。原因不明のまま、科学捜査研究所、通称「科捜研」で血液を調べてもらったところ、ようやく死因が明らかになりました。
老夫婦はやはり心中でした。2人の血液か数十年前に発売禁止になっていた、パラチオンという農薬が検出されたからです。
パラチオンは稲の害虫駆除や、ダニ駆除のために使用されていた薬物です。かつては多くの国で使用されていましたが、毒性が非常に高く、人間の中毒事故や近くに住む家畜まで死亡する事故が相次いだため、日本では1971年に一般使用が禁止されています。
毒性が高い薬物ではあるものの、経口摂取すると胃や腸で吸収され、速やかに代謝されるため、時間が経つと胃を解剖してもその痕跡をみつけづらい特徴があります。
なんらかの事情から追い詰められた夫婦は、数十年前に購入していたであろう、パラチオンの存在を思い出したのでしょう。再度、夫婦の台所を調べると、きれいに洗って乾かされていたコップから、パラチオンが検出されました。
夫婦はパラチオンを水などで飲み、死の間際であっても使ったコップをきれいに洗ってから、元どおりにしていたのです。自宅近くの納屋を探したところ、パラチオンが入っていた瓶も発見されました。
夫婦の死に顔に苦悶の跡がみられなかったのは、発見から数日が経過していたからでしょう。毒を飲んで死ぬと苦悶の表情になるイメージがあるかもしれませんが、実際は死後硬直が3日ほどで解け、顔の筋肉も緩み、のっぺりとした無表情になります。
解剖で目にする死者のほとんどは、生前のその人の顔貌とはかけ離れた完全な無表情なのです。
わずか1年の間に4人家族のうち3人を解剖することに
同居する4人家族のうち3時間差で3人を私が解剖することになった極めて特殊な事例もあります。
その一家は夫婦と40代の息子、成人した娘の4人家族でした。しかし、妹が精神疾患を発症したことにより、徐々に家族に迷惑をかけるようになります。たとえば、お金をもたずに外出しては、タクシーで帰宅して代金を兄に払わせる。
そんなふうに一つひとつを取り上げれば深刻とまではいえないものの、いくつもの出来事が積み重なったのでしょう。
とうとう怒りが沸点に達した兄は、妹をこらしめようと――殺すつもりはなかった、と兄はのちに証言していますが――寝ている妹の顔面に片手鍋で沸かした熱湯をかけてしまったのです。
しかし、この一家が異様だったのはここからです。
成人した4人が同居しているのですから、父や母、もしくは自分の行動を後悔した兄、誰かしらが熱湯をかけられて顔面が熱傷でただれた妹を病院に連れて行くのが普通でしょう。しかし、誰1人妹を助けようとせず、そのまま放置してしまった。
数日後、妹はそのまま死亡します。他殺の疑いがあるとのことで、司法解剖に回ってきた彼女を解剖したとき、焼けただれた顔の周辺にはウジが這っていました。
さらに死体発見時の状況を聞くと、驚くべきことに兄が熱湯をかけたとき、妹のとなりには母親が寝ていたことがわかりました。後日、警察に事情を聞かれた母親は「自分の首にもお湯がかかった」と証言し、実際に火傷の跡もありました。
では、なぜ母親はとなりに寝ていた娘を放置したのか。
それは母親が認知症を患っていたからでしょう。では1つ屋根の下にいた父親はなぜなにも行動しなかったのか、その理由は明らかにされていません。妹の解剖の結果、傷害致死の疑いがあることが明らかになり、兄は逮捕され服役します。
それから1年も経たない冬に、2人暮らしになった老夫婦が今度は揃って死体となって発見されました。
解剖の結果、夫は病死、妻は凍死でした。
残された夫婦は、認知症の妻を夫が介護しながら暮らしていたそうです。介護者が先に亡くなった場合、認知症患者はなすすべもなくなってしまうことがあります。
家族で唯一、服役中に生き残った兄は、その後の人生をどう生きたのかまでは法医解剖医である私にはわかりません。しかし、過去に担当した解剖の中でも、際立って特殊な事例だったため深く印象に残っています。

