極右フェミニスト集団、Némésis(ネメジス)
フェモナショナリズムは、政党レベルにとどまらず、近年の極右系社会運動のなかにも顕著に見出される。とりわけ注目されるのが、ケルン事件を一つの媒介として2019年に設立された「アイデンティティ主義フェミニスト」集団、Némésis(ネメジス)である。
ネメジスは「フェミニスト」を名乗りながらも、フェミニズムを女性の解放や構造的な男女不平等への批判ではなく、民族主義的・人種差別的な政治の道具として再構成している。
彼女たちは性暴力を中心的な争点に据えながらも、「外国人レイプ犯は出て行け」といったスローガンを通じて、性暴力を移民男性、あるいは移民系男性に特有の問題として表象し、それを反移民・反イスラーム的な政治言説へと接続している。
ここ10年ほど、フランスの極右勢力は、女性の権利、とくに性暴力対策の擁護者を自称するようになった。これは、女性を主に「産む性」として位置づけてきた従来の家父長制的な立場からの転換である。
しかし、そこで語られる「女性の安全」は、フランス社会に根づく性差別を問うものではない。極右の世界観において、女性を危険にさらすものは、社会の内側にある男性支配ではなく、外から来た文化や宗教、とりわけアラブ系、アフリカ系の移民男性や、イスラーム教徒の女性のヴェールに投影される「外部の家父長制」である。
かつて前面にあったのは、「国民を外国人から守る」という構図だった。だが近年では、そこに「女性解放を体現する西洋文明を、外から来た家父長制、とりわけイスラーム教から守る」という語りが重ねられているのである。
ネメジスはこの語り口を社会運動の側から巧みに展開している。同団体は、左派やフェミニストの集会に入り込み、反移民・反イスラーム的なスローガンを掲げる「突撃型」のアクションや、ニカブ(女性のイスラーム教徒が着用する丈の長い衣服)を脱ぎ捨てるパフォーマンスなどによって注目を集めてきた。
さらに、ネメジスは国民連合や再征服といった極右政党との関係も深めており、選挙では投票を呼びかけてもいる。彼女たちは、政党の外部にある社会運動でありながら、極右政党のフェモナショナリズム的言説を補完し、拡散する役割を果たしているのである。
しかし、ネメジスの性暴力をめぐる言説には大きな偏りがある。同団体は、被害者や事件を選別し、治安強化や反移民のアジェンダに沿う形で利用する傾向が強い。
その結果、性暴力の加害者がしばしば被害者の身近な人物であるという現実は後景に退けられる。偏った数字や限定的なサンプルを用いることで、外国人による性暴力の比率が過度に強調される一方で、レイプの91%は知人によって、45%は配偶者や元パートナーによって行われるという基本的な事実は十分には扱われない。
また、ネメジスが取り上げるフェミニズムの争点はきわめて限定的で、性暴力以外の問題、たとえば賃金格差、家事分担、中絶といったフェミニズムが本来扱ってきた幅広い課題に踏み込むことはない。
さらに見逃せないのが、ネメジスとネオファシスト勢力とのつながりである。フランスの新聞『ユマニテ』が2025年2月に報じたスクープによれば、ネメジスとネオファシスト活動家のメッセージのやり取りから、同団体が反ファシスト活動家を挑発して「誘き寄せ」、そこに極右活動家が暴力を加えるという作戦を企んでいたことが明らかになった。
また、そのグループトーク内では女性蔑視や容姿への侮辱も飛び交っていたが、そうした発言は問題視されず放置されていた。この事例は、ネメジスが一見フェミニズム的な語彙や行動様式を用いているにもかかわらず、その背後では女性蔑視的で暴力的な極右ネットワークと結びついていることを示している。
極右によるフェミニズムの取り込みと「免疫」
ネメジスのような団体やフェモナショナリズムの高まりは、右派の女性運動が新たな段階に入ったことを示している。反同性婚運動で主体的に動いた女性たちは、ジェンダー平等や女性の権利を拒否し、伝統的な女性性や家庭内役割を重視するという意味で、あくまで「反フェミニスト」であった。
これに対して、ネメジスのような団体は、自らを「フェミニスト」と名乗っている。すなわち、右派・極右の女性運動は、もはやフェミニズムを正面から拒絶するだけではなく、その言葉を排外主義や性差本質主義に沿うかたちで、自らの政治のなかに取り込みはじめているのである。
なぜ極右は、フェミニズムのように本来は相容れない思想までも取り込むのか。この問いを考えるうえで、イタリアの政治学者ロベルト・エスポジトの「免疫」概念は有効である。
エスポジトによると、免疫とは、共同体や国家が外部の危険から自らを守るために、その危険を完全に排除するのではなく、弱められたかたちで内部に取り込み管理する仕組みを指す。つまり、共同体はときに外部を制御可能な形で内部化することで、自己を維持し、強化するのである。
つまり、極右は女性やマイノリティを単に排除するのではなく、無害化された形で取り込み、自らの秩序を補強するために利用することがあるのだ。
極右によるフェミニズムの利用も、この免疫化の一例として考えることができるのではないか。極右は、フェミニズムの語彙を都合よく取り込もうとする。女性の自己決定や選択をめぐる議論は、個人の自由や自己実現を強調する言説へと置き換えられることで、社会構造への批判を失った新自由主義的フェミニズムとして回収される。
「女性を守る」という語りは、移民やムスリム、性的マイノリティを危険な存在として位置づけ、排外主義や差別を正当化するために用いられる。こうしてフェミニズムの批判的視座は弱められ、国家・人種・性の境界を守る道具へと作り替えられていく。
ただし、極右がフェミニズムを都合よく利用しているからといって、極右の女性たちを受動的な「被害者」であるかのように見ることもできない。一部の女性は、保守的、反動的、あるいはファシズム的な思想を積極的に引き受け、その担い手として主体的に行動するからだ。
極右は、女性に従順さ、献身、礼儀正しさ、家庭への帰属を求める一方で、彼女たちに怒りや不満を表現する場も提供する。しかし、その怒りは男性中心の支配構造ではなく、移民、性的マイノリティ、宗教的マイノリティなど、より周縁化された集団へと向けられる。
極右の女性たちは、与えられた役割のなかで自らの位置を見出し、一定の発言力や優越感を得ようとする。つまり、ここで機能しているのは、既存の秩序を問い直すのではなく、その秩序の内部で、すでに周縁へと押しやられている人々を排除の対象とすることで、自分の位置を相対的に確保しようとするエージェンシー(行為主体性)なのである。

