私がスポーツジャーナリストとしてやってこれた大きな要因の1つに、高校時代から親しく付き合ってきた田淵幸一(79)の存在がある。
法政一高時代は田淵の控え捕手、法政大野球部でも常に一緒だった。私は田淵が阪神タイガースに入団(1969年)する前の高校時代から家族ぐるみの付き合いをしており、その人脈があったからこそスポーツ紙記者にもなることができた。
実際、田淵ネタに関しては誰にも負けなかった自負がある。あまりに近かったため、スポーツ紙記者時代には逆に書くことができなかった特ダネも多々あったが、後に週刊実話の記事などで一部書いている。
記者になってから一度も記事にしなかったエピソードの1つには、田淵とテニス界のアイドル的スターだった沢松姉妹(姉・順子さん、妹・和子さん)との"今だから明かせる話"がある。
沢松姉妹は1970年の英ウィンブルドン女子ダブルスでベスト8に入り。日本中にテニスブームを巻き起こしていた。
妹の和子さんは'75年にアン清村と組んで日本人初のウィンブルドン女子ダブルス優勝を果たすなど、まさにテニス界の女王となっていく。
テニス界のプリンセスに一目惚れした猛アプローチ
そんな沢松姉妹と田淵の出会いは、兵庫県西宮市のテニスコートで開かれたある新聞社が企画したイベントだった。妹の和子さんは170センチを超える長身で、そんな姿に一目惚れした田淵が猛アプローチして電話番号を交換、姉妹との交流が始まった。
沢松家は姉妹の祖父の時代からテニス界で活躍してきた名門一族で、姉妹はスターであると同時にお嬢様でもあったが、田淵の初々しいアプローチもあって当初、交際は家族からも好意的に受け取られたようだ。
こうして親しく電話で話しを交わしているうちに、田淵が沢松姉妹の自宅に招待されることになり、私も友人として同行することになった。西宮の一等地にある豪邸の前に立った時のことはよく覚えている。
阪神の若きプリンスとテニス界のプリンセスの極秘交際の現場に居合わせることができた興奮と緊張に、単なる付き添いでしかない私まで足が震える思いだった。大概のことには動じない性格の田淵も、正門の呼び出しボタンを押す時は、かすかに指が震えていた。
門を潜って進むと見渡すほどの庭が広がり、その一角にはプライベートのテニスコートがあった。応接間に通され、御両親に型通りの挨拶を済ませると、ようやく緊張も解けてきた。すると、すぐ姉の順子さんが言い出した。
「2人ともスポーツマンだから、テニスもできるでしょ。練習がてらダブルスでテニスしません?」
私は戸惑ったが、田淵が「しましょう!」と即答したので断れなくなった。私はテニスをやったことなど一度もないからだ。和子さんが嬉そうに田淵にラケットを手渡し、可愛らしい笑顔を見せる。
田淵も少年のような笑顔で応えながら「負けないぞ! ダルマ(田淵が私に付けたニックネーム)も、しっかりやれよ!」と、本気で私を叱咤した。体力にはまだまだ自信があったが、やはりテニスは勝手が違う。
田淵はさすがの運動神経で沢松姉妹相手にラリーで打ち合ってみせたが、私は終始、みんなの足を引っ張ってしまう"火ダルマ"状態だった。
田淵は「ダルマ、そんなにヘタじゃあ2人に失礼だよ」と呆れたが、順子さんが「でも、ダルマさんも良かったわよ」と、フォローしてくれたのが嬉しかった。
ここで田淵が和子さんと混浴、いや混合ダブルスを組むような場面はなかった。つまりは、まだそのぐらいの距離感での昭和らしい清純な交際だった。
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父親の心配と会社からの厳命の間で隠し通した純愛
その後も沢松姉妹と田淵の極秘交際は続いたが、記者の私は誰にも口を割らず、どこにも書かなかった。実は、私は将来の結婚相手を心配した田淵の父親から「息子の交際相手を報告してほしい」と頼まれていた。
また、上司の部長からは「田淵の結婚スクープは絶対に逃すなよ」と釘を刺されてもいた。それでも隠し通したのは、私にとって2人は理想のカップルで、このまま結婚してほしいと強く願っていたからだ。
ただ、私が見守ろうと思っていたこの関係は、思わぬ展開となる。というのも、出会いから田淵の本命は妹の和子さんで、和子さんの態度も脈ありのように見えていた。
ところが、実は姉の順子さんも田淵に密かに恋心を抱いていたのだ。そして、その気持ちを知った和子さんは、お姉さんに譲って身を引こうとしたのだ。
これは妄想ではない。私は友人として姉妹から恋の相談を受けており、姉妹それぞれから田淵への想いを綴った手紙まで貰っていた。田淵にも正直に伝えたが、和子さん一筋の想いは変わらなかった。
2人のいじらしさを思うと、そんな田淵の本音を姉妹に伝えることは到底できなかった。