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ビーチでパソコンを開いて優雅に仕事をする——。ノマドワーカーに憧れる人が思い描くそのイメージは、現実とはかけ離れているかもしれません。
飯田慶太さん(以下、飯田さん)は現在、企業のデジタルサービスのプロモーションを手がけるクリエイターとして日本で活動しています。
約4年間、世界を旅しながらパソコン一台ではたらいてきた飯田さんは、「ノマドワーカーは泥臭くて地道」と言い切ります。人力車やエンジニア、動画編集の仕事など多彩なキャリアを歩んできた飯田さんに、世界を旅しながらはたらいた経験や、その中で生まれた心境の変化について聞きました。
アメリカの大学進学を夢見るも断念。ADHDと向き合いながら、高卒で人力車の世界へ。
──飯田さんはどのような学生時代を送られていましたか?
中学・高校と、ひたすら海外を目指していた学生時代でした。きっかけは中学生のころに見た映画『ハイスクール・ミュージカル』で、海外への興味が芽生えました。
高校は国際学科があるところを受験するも、結果は不合格。「もう高校に行かずにはたらいて、そのまま海外に出てしまおうか」とも考えましたが、親からは「高校だけはちゃんと出てほしい」と言われてしまい……地元から通える公立高校に進学しました。
海外へのあこがれは簡単には消えず、高校卒業後はアメリカの大学を目標にインターナショナルスクールに1年間通いました。
アメリカでは、大学によっては年間で1,000万円以上の学費がかかることもあります。当時は、新聞配達のアルバイトをしながら、奨学金の獲得と大学進学に向けて一日中勉強に打ち込んでいました。しかし、最終的に奨学金は獲得できず、両親からも「1,000万円なんて高くて到底払えない」と反対されてしまって。そこで大学進学の夢はきっぱりとあきらめ、 高卒で社会に出る道を選びました。
──なぜそこまで海外の大学にあこがれがあったのでしょうか?
学生時代の演劇部での経験が大きいです。当時はイスラエル・パレスチナ問題や満州事変といった、歴史や社会問題を題材にした演劇に取り組んでいました。
お世話になった顧問の先生は厳しい指導で有名で、「セリフ一言にも歴史がある。演じるなら背景までイチから学んでこい」と教えるような人でした。
セリフを理解するために当時の歴史や社会背景を自分で調べるようになり、いつの間にか、いい芝居をするために知識を深めるようになりました。
高校まで勉強をほとんどしてこなかったのですが、演劇を通じて、学ぶことの面白さを知ったんです。
だから、大学でも主体的に学べる環境に身を置きたくて。論文やディスカッションを通して考えをより深めていける海外の大学は、まさに自分が求めていたものでした。
一方で日本の大学生活は、勉強よりもサークルやアルバイトを楽しむイメージがあり、当時の自分が求めていた環境とは少し違うように感じていました。そのため、日本の大学へ進学する未来がどうしても想像できなかったんです。
──そこから次に、なぜ人力車の仕事を始めたのでしょうか?
アメリカの大学進学を断念した後、次の道を模索しました。ワーキングホリデーや地元の千葉県から上京してIT系の企業に就職するなど、いろいろな選択肢が浮かびました。けれど、せっかく身につけた英語力を無駄にしたくないという気持ちがありました。
そんな中で見つけたのが人力車の求人です。基本は日本語での接客ですが、外国人観光客には英語も使える、体を動かしながら人と話せて、お金までいただける。「これしかない!」と思いました。
すぐに申し込んで無事に京都への配属が決まり、直前に日雇いバイトで貯めた5万円を握り締めて引っ越しました。当時は本当にお金がなかったんですが不安はそれほどなくて、「寮もあるからなんとかなるでしょ」と楽観的でした。
──人力車の仕事はいかがでしたか?
とても楽しかったです。ただ、最初はかなり苦労しました。実は、人力車の仕事を始める少し前に、精神科を受診してADHDと診断されていて。
学生時代から提出物の締め切りをうっかり忘れてしまったり、準備していたつもりでもどこかに抜けがあったりと、思い当たる節がいくつかあったので、ADHDと診断された時は、そこまでの驚きはありませんでした。
人力車の仕事はお客さんを楽しませるだけでなく、常に周囲の状況を把握しながら走り続ける必要があります。車や人の流れを読み、時には子どもが急に飛び出してくるような場面にも瞬時に反応しなければいけない。
気を抜くと一瞬で事故につながってしまうので、かなりマルチタスクな仕事でした。ぼくはつい目の前の一つのことに集中してしまい、周りの状況への注意が抜けてしまうことが多かったので、京都へ来て最初の3カ月は、ほぼ毎日のように先輩や上司から厳しく指導されていましたね。
その中で、「どうしたらミスを減らせるか」を考えるようになりました。指差し確認の徹底や、自分なりのルールをつくったりすることで、少しずつ仕事との向き合い方を見直していきました。人力車の仕事は、自分のADHDの特性と向き合う時間でもあったと思います。
安定して振り込まれる給料が怖かった。半年で会社員を辞め、自分の力で生きる道へ

──その後、人力車からエンジニアへキャリアチェンジをされたそうですね。
人力車の仕事はやりがいもあり楽しかったのですが、収入が常に自分の稼働時間に紐づくはたらき方に、少しずつ限界を感じはじめていました。
同時に、自立できるスキルを何か身につけたいとも思うようになって。当時は「ITスキルがあれば将来は困らない」と言われていたこともあり、いかに自分の時給単価を上げるかを考え抜いた結果、エンジニアになることを決意しました。
人力車の仕事は2年で区切りをつけ、独立するための準備として、まずは正社員のエンジニアに転職することにしました。
──会社員としての生活はどうでしたか?
正直、自分にはまったく合いませんでしたね。上場している大手のエンジニア企業に就職しましたが、配属先で任された業務では開発そのものではなく、完成したものにバグや不具合がないかを確認する作業がほとんどで。いち早く独立するための経験を積みたかった自分にとって、理想と現実のギャップに常にモヤモヤしていました。
また、入社したてのころは、本社でひたすら勉強をする研修期間があったのですが、何も生み出していないのにお金がもらえる状況がすごく居心地が悪かったです。はじめて給料として銀行口座に13万円振り込まれたときは、うれしいよりも「このぬるま湯に慣れたらやばい」という危機感のほうが断然大きかったです。人力車時代は完全歩合制だったので、「自分で稼いでなんぼ」という感覚がすでに身についていたんですよね。
──その危機感をどのように行動に変えていったのでしょうか?
会社員としてはたらきながら、動画制作の仕事を並行して始めました。高校時代から動画制作に取り組んでいたので、ある程度の編集スキルは身についていたんです。
まずは、知り合いのYouTubeのサムネイルを無償で制作しました。当時はなぜか「自分のほうがうまくつくれる」と根拠のない自信があったんです(笑)。仕上がったものを見てもらい、「気に入ったら500円で買い取ってほしい」と伝えたところ、買い取ってもらえたのが自分の名前で得たはじめての収入です。ここから少しずつ今のキャリアにつながっていきました。
その後は自身のYouTubeチャンネルの運営と動画編集の受託業務を並行して進め、初月は3万円、翌月は5万円と徐々に収入が増えていきました。
そこから動画制作にコミットすればさらに収入を伸ばせると確信し、入社して半年で会社を退職しました。会社員という立場を手放す不安より、自分の名前で仕事を受けて、努力したぶんだけ報酬として返ってくるはたらき方のほうが、むしろ安定しているように感じたんです。

