1969年7月3日。ローリング・ストーンズの創設メンバーであるブライアン・ジョーンズが27歳で永眠した。ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソン。そしてニルヴァーナのカート・コバーン、エイミー・ワインハウスら“27クラブ”と呼ばれる27歳でこの世を去ったロックスターやポップスターの走りとなってしまったのが、ブライアン・ジョーンズだ。
今回はローリング・ストーンズの初期に触れながら偉大なロックスターを偲びたい。
27クラブ
ロックの歴史を振り返る時、1969年は非常に意味深い年として捉えられることが多い。
それは激動の1960年代最後の年であるばかりでなく、ビートルズの実質的なラストアルバムがリリースされた年であり、愛と平和と自由の象徴ウッドストックの開催と、それを覆したオルタモントの悲劇が起き、のちにイーグルスが「ホテル・カリフォルニア」で「1969年以降、私どもはそうしたお酒(Spirit/精神)は用意しておりません」と歌った年。
そして、忘れられない出来事は、ローリング・ストーンズのメンバーだったブライアン・ジョーンズが亡くなったこと。彼の死は、60年代のポップスターやロックスターの相次ぐ死の始まりでもあった。
翌年にはジミ・ヘンドリックスとジャニス・ジョプリン、翌々年にはジム・モリソン(以上の3人は奇しくもブライアンと同じ27歳で死去)やデュアン・オールマンが亡くなっていく。ブライアンの死は、一つの時代の終わりを静かに告げていた。
1962年、ロンドンで結成されたローリング・ストーンズ。最初にブライアン・ジョーンズ(ギター)とイアン・スチュワート(ピアノ)、そしてミック・ジャガー(ヴォーカル)とキース・リチャーズ(ギター)、ビル・ワイマン(ベース)やチャーリー・ワッツ(ドラム)らが加わってバンドが誕生する。
「ブライアン・ジョーンズがブルーズ・バンドを結成したくて、それぞれのメンバー1人1人に声をかけたんだ。彼が“ザ・ローリング・ストーンズ”と名付けた。彼が音楽を選び、彼がリーダーだったんだ」(ビル・ワイマン)
ビルが語っているように、バンドの結成時からメンバー選びやライヴの交渉、選曲にいたるまでの一切を仕切っていたのは、ブライアンだった。
しかし、1963年のレコード・デビューを機にマネージャーに就いたアンドリュー・オールダムは、ビートルズのような人気バンドを目指して、ルックスが合わないイアンをまずメンバーから外した。それから5人組のバンドとして、デッカ・レコードと契約したのである。
中でも、ブライアンの数々の楽器を弾きこなす音楽スキルの高さ、男女の垣根を飛び越えた斬新なファッションセンスは、メンバーの中でも一際眩いカリスマ性を放った。
この金髪の美少年の前では、ミック・ジャガーもキース・リチャーズも垢抜けない子供のように見えた。まだボトルネックが何なのかイギリスでは誰も知らない頃から、ブライアンは見事にエルモア・ジェイムズばりのスライドギターをものにしていた。
孤立していくブライアン・ジョーンズ
野心満々の戦略家だったアンドリューは、ストーンズの人気が出てくるにしたがって、レパートリーにおいてもブライアンが主張するブルーズやR&Bのカバー曲ではなく、多額の著作権印税が入ってくるオリジナル曲を優先していった。
そこでミックとキースによる曲作りが始まると、全米1位になった「サティスファクション」を筆頭に、世界的なヒット曲が続々と生まれていく。当然のことながら、二人の作る楽曲がその後のストーンズの方向性を主導していく。そのことがブライアンを傷つけ、孤立させることにもなった。
1965年9月、そんなブライアンに運命の出逢いが訪れる。ドイツ公演でモデル/女優のアニタ・パレンバーグと恋に落ちるのだ。似た者同士の二人は意気投合し、当時のムーヴメント“スウィンギング・ロンドン”を象徴するカップルとなる。
しかし、次第に音楽的なリーダーとしての役割を奪われたブライアンは、出る幕が減るにしたがって鬱屈し、現実逃避のためにドラッグへの依存度が増していった。そこに若者たちへの悪影響を問題視し、「ストーンズ潰し」を狙った警察に真っ先に目をつけられて逮捕されるなど、精神的に打ちのめされていく。
1967年。ブライアンとアニタとキースは、イギリスでの体制とのトラブルから逃れるためにモロッコの旅へと出向く。
一方でアニタとの関係は過度なストレスもあって旅の途中で決定的に崩れ去り、遂に彼女は心を寄せていたキースを選んで逃避行を決断。民族音楽のジャジューカを録音する成果は生まれるものの、すべてを失ったブライアンの心はズタズタだった。
慢性的なうつ病は日増しに悪化し、レコーディングに来ても演奏に参加できないほどの酷さで、そのうちに休養と入院を繰り返す状態になった。
静かな生活を求めて、ロンドン郊外のコッチフォード農場(以前は『くまのプーさん』の著者A.A.ミルンが所有)に住むようになったのは、1968年の晩秋から冬にかけてのことだ。
愛するアニタを失って以来、酒やドラッグに浸り切るブライアンは、新しいガールフレンドを呼びつけては、虚しい現実逃避の日々を送っていた。

