ここにきて震度5弱以上の地震が相次いでいる。
6月16日夜には茨城県南部を震源とする最大震度5弱の内陸地震が発生。また、25日には岩手県沖で震度6強、翌26日には山梨県の富士山近くで震度6弱の揺れを示す地震が起き、さらに27日にはまたも岩手県沖を震源とする震度5弱の地震が発生した。これら地震が及ぼす大きな揺れやスマートフォンの緊急地震速報に肝を冷やした者も少なくなかったはずだ。
専門家が口を揃えて「南海トラフ巨大地震」「首都直下型地震」の切迫性を訴える今、私たちは防災意識を高めるとともに生き残るためにも、過去の恐ろしい事例を今一度振り返っておく必要があるだろう。地震が発生したときに、いったい何が起きるのかを詳しく知っておく必要があるからだ。
そこで日本の地震史において、「被害の大きさ」と「規模の大きさ」でそれぞれ頂点に立つ2つの地震を見直してみよう。前者は関東大震災、後者は東日本大震災だが、この2つは同じ「大震災」という言葉で括られながらも、その恐ろしさの質がまったく異なっているのだ。
◆死者10万人超——関東大震災の地獄絵図
1923年(大正12年)9月1日、午前11時58分。相模湾北西部を震源とするM7.9の大地震が、近代化しつつあった首都圏を襲った。いわゆる関東大震災である。埼玉・千葉・東京・神奈川・山梨で震度6以上の激震が走り、北海道から四国まで揺れた。
しかし、最も恐ろしかったのは揺れそのものではなかった。
「地震が発生したのは折悪しく昼食の時間帯、多くの家庭でかまどや七輪に火が入っていた。折り重なった木造家屋が次々と炎に包まれ、台風由来の強風が火の海をさらに広げた。本所被服廠跡(現・墨田区)に避難していた約4万人の人々は炎の渦に巻き込まれ、一夜にして命を落とした。この地震は揺れ以上に、その後起きた火災が凄まじい被害をもたらしたのです」(防災ライター)
死者・行方不明者は約10万5000人。そのうち約9万1000人が火災による犠牲者だった。焼失・全潰等の被害を受けた住家は総計37万棟に上り、経済的損失は当時の国家予算の数倍に迫ったとされる。被害が集中した東京の下町では、沖積低地に密集した木造住宅が延焼の連鎖を止める術もなく、7万人ともいわれる死者を出した。
現代に置き換えれば、東京・横浜という日本の心臓部が一夜にして灰じんに帰した状態で、「明治以降で最大の人的被害」という事実は、100年以上経った今も塗り替えられていない。
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◆M9.0——東日本大震災、地球が震えた日
一方、東日本大震災が起きたのは2011年(平成23年)3月11日14時46分。
「三陸沖を震源とする地震が発生した瞬間、日本の観測史上、誰も経験したことのない数字が計器に刻まれた。マグニチュード9.0――関東大震災の約180倍ものエネルギーを放出した超巨大地震で、宮城県栗原市では最大震度7を記録。北海道から九州まで、日本列島のほぼ全域が揺れたのです」(地震研究家)
この地震は揺れも凄まじかったが、「別次元の災害」にしたのは津波だった。岩手・宮城・福島の三陸沿岸を高さ数十メートルに及ぶ巨大津波が次々と襲い、防潮堤も、避難ビルも、人々の逃げる時間さえも奪い去った。
陸前高田市では市街地のほぼ全域が水没し、気仙沼では津波で家屋の漏電や流された車が発火し巨大な「津波火災」が起きるという、想像を絶する複合災害も起きた。
警察庁の最新発表(2026年3月時点)によれば、死者1万5901人、そして今なお2519人の行方が知れない。さらに福島第一原発事故が加わり、被害は物理的な破壊にとどまらず、放射線汚染という前例のない複合災害へと拡大した。今も故郷に戻れない人々がいる現実が、この震災の「終わっていない傷」を示している。
