
私たちの宇宙は、生まれた瞬間に、猛烈な勢いでバラバラに引き裂かれていても、おかしくありませんでした。
銀河も、星も、地球も、私たちも——物質が寄り集まって形になる間もなく——理論の上では、そうなっていて当然だったのです。
量子場理論によれば、宇宙のどこであれ、「何もない場所」には、ごく小さなゆらぎがひっきりなしに起きていて、それ自体がエネルギーを持っています。
そして、このエネルギーには空間を内側から押し広げる性質があるため、すべてを合算すると、宇宙を猛烈な勢いで膨張させるはずなのです。
ところが、現実の宇宙は、そうなっていません。
膨張を押し進める力を表す「宇宙定数」という数は、理論の予測よりも桁違いに小さく、宇宙は穏やかに膨らみ、銀河を生み、星を灯し、私たちを育んできました。
なぜ、この数はこんなにもおとなしいのか。
この問いは100年近く、世界中の物理学者を悩ませ続けてきました。
アメリカのブラウン大学(Brown University)の研究チームが示したのは、この問いに対する、まったく意外な角度からの答えでした。
研究者たちは、宇宙とはおよそ縁のなさそうな、量子世界の背後にある数学と、宇宙の時空を記述する理論の数学が、驚くほどよく似た骨格を持っていることを突き止めました。
なぜ宇宙膨張の秘密が小さな量子世界に隠れていたのでしょうか?
研究内容の詳細は『Physical Review Letters』にて発表されました。
目次
- 宇宙は「生まれた瞬間に吹き飛ぶ」はずだった
- 宇宙定数と量子世界の数式が驚くほど似ていた
- 宇宙の姿は偶然か、設計図の描く必然か?
宇宙は「生まれた瞬間に吹き飛ぶ」はずだった

宇宙定数――名前からして難しそうですが、その本質は意外なほど単純です。
宇宙定数の芯となる概念は「何もない空間そのものが持っている、宇宙を押し広げるエネルギー」と言えるからです(近ごろよく耳にする「ダークエネルギー」とも、深く関わっています)。
この数を最初に持ち出したのは、あのアインシュタインでした。
この宇宙には重力があり、あらゆるものを惹きつけています。
そのため放っておけば、宇宙が自分自身の重力で潰れてしまうとアインシュタインは考えたのです。
そこでアインシュタインは、宇宙が自分自身の重力で潰れてしまわないように、内側から支える「つっかえ棒」あるいは「内圧」として、宇宙定数という概念を自身の方程式に組み込みました。
アインシュタインとしては自らの理論を「今の宇宙が潰れていない」という現状にあわせるため修正と言えるでしょう。
ところが、その後の観測で、宇宙は止まってなどおらず、実際には膨らんでいることがわかってしまいます。
1929年、天文学者エドウィン・ハッブルが、宇宙の膨張を発見したのです。
じっとした宇宙を支えるために入れたはずの”単なるつっかえ棒”は、まるごと不要になってしまいました。
アインシュタインはこれを、のちに”最大の失敗(biggest blunder)”と呼んで悔やんだと伝えられています。
そして宇宙定数は、いったん物理学の片隅に追いやられます。
流れが変わったのは、それから約70年後のことです。
1998年、天文学者たちは驚くべき発見をしました。
宇宙の膨張は、ただ続いているだけでなく、だんだん速くなっている——加速していたのです。
何かが宇宙を、外へ外へと押し広げ続けている。
その”押す力”を書き表すのに、いちど捨てられたはずの宇宙定数が、ふたたびぴったり当てはまりました。
今度は不変の宇宙を支える”単なるつっかえ棒”ではなく、宇宙をぐんぐん押し広げる——いわば、伸びるほど勢いを増す如意棒として、舞い戻ってきたのです。
ですがここからが悪夢の始まりでした。
宇宙定数が追いやられていたあいだに、物理学ではもう一つの強力な理論が育っていました。
ミクロの世界のふるまいを記述する量子場理論です。
この量子場理論で、空っぽに見える空間を計算してみると、そこはまったく空っぽではないことがわかりました。
ごく小さな粒が、生まれては消え、生まれては消えを、絶え間なく繰り返している。
いわば、細かな泡が絶えず立ち続ける”ざわめきの海”のような場所だったのです。
こうした真空のゆらぎは、「真空エネルギー」に寄与すると考えられています。
そして量子理論に従えば「真空エネルギー」には空間を押し広げる力があるとされていました。
量子の世界からも宇宙定数のようなものが導き出されたわけです。
ただ問題はその量にありました。
ざわめきは、一つひとつは微々たるものです。
けれど、空間のあらゆる場所で、あらゆるスケールのさざ波が同時に立っています。
では、このざわめきが持つエネルギーを全部足し合わせると、どうなるのか?
結果は事実上、無限大と呼んでいい大きさにまで達してしまいました。
量子場理論の計算に従えば、宇宙定数はとてつもなく巨大になってしまうわけです。
もしその通りだったら、宇宙は生まれた瞬間に、猛烈な勢いでバラバラに引き裂かれてしまいます。
銀河も、星も、地球も、そして私たちも、存在するひまなどなかったでしょう。
物理学の世界では、理論と観測が数倍ずれただけでも一大事ですが、量子場理論の予測と実際の観測とのズレは、見積もり方によって、約 10⁴⁴倍(44桁)~10¹²⁰倍(120桁)にも及びました。
両者のあいだのあまりに想像を絶するほどの開きから「物理学史上、もっとも大きく外れた予測」とまで言われてきました。
普通、観測結果とここまで大きなズレがあれば、間違っているのは理論のほうになります。
しかし量子論はけっしていい加減な理論ではありません。
それどころか、他のさまざまな場面では、おそろしく正確に現実を言い当ててきました。
私たちの身近なスマートフォンやパソコンも「量子論の正しさ」をベースに設計されていることから、その優等生ぶりがわかるでしょう。
その優等生が、宇宙定数についてだけは、これほど大きく外してしまうのです。
デタラメな理論が外したのなら、まだ話は簡単です。
しかし信頼できる理論が、ここだけ盛大に外す——だからこそ、この謎はいっそう不気味なのです。
では研究者たちは、この100年の難問に、どんな答えを出したのでしょうか。
宇宙定数と量子世界の数式が驚くほど似ていた

研究チームが目をつけたのは、宇宙とはおよそ縁のなさそうな、量子世界の電気の話でした。
まず、とても薄くて平べったい、長方形の金属の板を思い浮かべてください。
この板の”長いほうの向き”に、電気を流します。
ところが、この板に磁石の力(磁場)を加えると、面白いことが起こります。
磁石にはふしぎな性質があり、動いている電気に対して、その進行方向を”横から押しのける”ように力をおよぼすのです。
板の中を進んでいた電子は、この磁石の横押しを受けて、片側へ片側へと押しやられていきます。
こうして、もともと流していた電気とは”直角の向き”に、もう一つ別の電気の勢い(電圧)が、じわりと生まれます。
この現象自体は1879年にエドウィン・ホールが発見した「ホール電圧」と呼ばれるものです。
ふつうの温度で、磁石の力もそこそこの強さのときは、この横向きの電圧の勢いは素直にふるまいます。
磁石を強くすればするほど、勢いもなめらかに増えていきます。
ところが、うんと冷たく冷やして、しかも磁石の力をものすごく強くすると、ふるまいがガラリと変わります。
なめらかだった勢いの増え方が”階段状”に変わるのです。
磁石を少し強めても勢いは動かず、ある一線を越えると、カクンと次の段へ一気に上がるようになります。
上がったあとは、またしばらく磁力を増やしてもピタリと動きませんが、ふたたびある段階に達すると、がくんと勢いが上がります。
スロープ状に登っていたものが、まるで決められた階しか止まらないエレベーターのような挙動になるわけです。
そして驚くのは、その正確さです。
この”止まる階の高さ”は、使う金属の種類が違っても、その金属に多少の傷や欠陥があっても、まったく同じ値になります。
材料を変えても、少しくらい汚れていても、判で押したように同じなのです。
ふつう、電気の流れやすさは、通り道の傷や汚れで少しずつバラつくものなのに、この一致は、10億分の1という、けた外れの精度に達します。
この現象は量子ホール効果と呼ばれ、1980年にクラウス・フォン・クリッツィングが発見し、1985年にノーベル物理学賞を受けています。
ではなぜ、こんなに正確で、びくともしないのでしょうか?
その秘密は、金属の成分や表面の状態といった細かい部分ではなく、もっと深いところ——”全体としての性質”にありました。
あの極限の状態——うんと冷やして、磁石で強く縛った状態——では、板の中の電子たちが、めいめい勝手に動くのをやめ、全員がひとつの集団としてそろって動き始めていたのです。
そして、”止まる階の高さ”をきっちり決めているのは、この「みんなでそろった状態」が持つ、全体としての性質に起因していました。
材料の違いや傷や欠陥は、伝導率を「少しだけ」動かそうとします。
ところが、この集団状態が持つ全体としての性質は、そうした細かなちょっかいでは書き換えられないほど頑丈でした。
だから、材料を変えても、表面に傷があっても、値はいつも同じところに落ち着くのです。
そして、なぜ中途半端な高さでは止まれず、ガクンと決まった段でしか動かないのか。
その様子を数式で描くと、根っこに「この場合は、整数的な値しか許さない」という縛りがあることが見えてきます。
「あるガクン」と「次のガクン」が建物の2階と3階のように数式の中で整数的に描かれており、その中では2.5階や3.2階という半端な数値をとらなくなるのです。

この整数縛りはドーナツの穴とも似ています。
実はドーナツは美味しいだけでなく、数学的には整数縛りの象徴的存在でもあります。
世界には穴の数が2個や3個といったユニークなドーナツがありますが、穴の数が2.5個のドーナツなどは存在しません。
また穴の数が2個の状態と3個の状態では、ドーナツを現わす数式も劇的に変わります。
ちょっとやそっとの傷や変形では穴の数を増やしたのと同じ数式にはたどり着けないのです。
当然ながら材料を変えても、穴の数を表す数式が変化するはずもありません。
何の変哲もないドーナツという図形は、数学の世界ではちょっとやそっとで変わらない整数の化身として君臨しているわけです。
では、もしこれとよく似た数学的な性質が、時空を記述する理論にも現れていたとしたら、どうでしょうか?
研究者たちは今回、時空の「基本の姿」にも、この量子ホール効果やドーナツの穴のような「ちょっとやそっとでは変えられない性質」が備わっている、という理論を使いました。
「チャーン・サイモンズ・コダマ状態(CSK状態)」と呼ばれるものです。
この名前の「コダマ」は、日本の理論物理学者・小玉英雄氏が1990年に提案した波動関数に由来します。
今回の研究の土台のひとつは、じつは日本の物理学者が生み出した波動関数なのです。
そして研究者たちは、宇宙定数を暴走させるはずだった量子ゆらぎが、じつはドーナツの表面につく「傷」のようなもので宇宙定数を容易に「ガクン」動かしにくいことを示しました。
「量子ゆらぎを全部足すと、無限になるはずでは? その無限の力で押されたら、いくらなんでも動いてしまうのでは?」と思うかもしれません。
私たちはつい「強く押せば、その分だけ大きく動く。無限の力で押せば、無限に動く」思います。
テーブルの上にある箱があって1センチ動く力を与えれば、1センチ動き、10センチ動く力を与えれば10センチ動くと考えます。
だから「無限の力で押せば無限に動く」と思います。
もし宇宙定数がテーブルの上にある箱と同じ物理的性質を持っているなら、同じ結果になるでしょう。
ただそれは宇宙定数が豆電球が明るくなるのと同じ物理法則に従っていると期待するくらい難しいことです。
実際、研究チームが見つけたのは、この理論(CSK状態)の中では、宇宙定数が住んでいるのは、階段状に区切られた飛び飛びの世界だった、ということでした(1/Λが量子化される)。
この階段には、段と段のあいだに、なだらかな斜面がありません。
ではこの宇宙定数を、量子ゆらぎが押すと、どうなるでしょうか。
実は量子ゆらぎは、いわば「なめらかに、じわじわと押し続ける」タイプの力(摂動的補正)です。
階のボールを、1.1階、1.2階……と、連続的に少しずつずらそうとします。
たとえるなら、量子ゆらぎは斜め向きのスロープを使って力を加えるタイプと言えるでしょう。
ところが、この階段の世界には、スロープが存在しません。
どんなに大きく見える押しでも、それが「なめらかに、じわじわ」と加わる種類のものであるかぎり、宇宙定数を次の段へは運べません。
押している方向と、動ける方向が、そもそも噛み合っていないとも言えるでしょう。
だから、こうした”なめらかに加わる”タイプの力は、いくら合算が大きくなっても、宇宙定数を次のガクンには持っていけないのです。
研究チームは、こうして宇宙定数を暴走させるはずだった量子ゆらぎの”押す力”を封じられる可能性を示したのです。
研究チームのフイ氏は、量子ホール効果における電気伝導度の量子化と、宇宙定数のふるまいには、そっくりな共通点があったと語ります。
宇宙定数もまた、時空の”かたち”に由来する理由(専門的には位相幾何学的な理由)から、飛び飛びの決まった値しかとれないよう、理論そのものに縛られていた、というのです。
決まった階でしか止まらないエレベーターが、小数点の高さには止まれないように。
傷がついても穴の数が増えないドーナツのように。
宇宙定数もまた、量子ゆらぎにいくら押されても、決まった段から動けないよう固定されていたのです。

