
私たちは常に、自分の意思で人生を選んでいるように感じています。
しかし実際には、心の奥にある無意識的な「思い込み」によって、考え方や行動が大きく左右されていることも少なくありません。
こうした思い込みは、世間一般では「正しい」ものとして定着していることも多いため、一見すると自然で前向きに見えるかもしれません。
しかし哲学の視点から見ると、それらは私たちを不自由にし、ときに不幸に近づける“危険な嘘”になることがあります。
ここでは、哲学が危険と考える「5つの思い込み」を紹介します。
目次
- その1「私はすべてをコントロールできる」
- その2「真実の愛を見つければ、私は幸福になれる」
- その3「私には、一生変わらない”私”がいる」
- その4「世界はきっと、私に意味を与えてくれる」
- その5「もっとお金や成功を得れば、私は幸せになれる」
その1「私はすべてをコントロールできる」
最初に疑うべき思い込みは、「私はすべてをコントロールできる」という考えです。
私たちは、過去を変えることも、老いを止めることも、他人が自分をどう思うかも、自らの意思で支配することはできません。
それにもかかわらず、「すべては自分の意思で変えられる」と考えていれば、心は消耗してしまいます。
古代ストア派の哲学者エピクテトスは、私たちが力を注ぐべきなのは「変えられるもの」であり、「変えられないもの」は受け入れるべきだと考えました。
この考え方は「コントロールの二分法」として知られています。
変えられないことに注意を奪われ続けると、私たちは時間も思考も浪費してしまいます。
一方で、自分の行動、判断、態度のように変えられるものへ意識を向ければ、人生の負担は少し軽くなります。
似た発想は、仏教の「二本の矢」の教えにも見られます。
これは、苦しみには大きく分けて「避けられない苦しみ」と「自分によって上乗せされる苦しみ」がある、という教えです。
例えば、一本目の矢は、病気、けが、老い、失敗、別れ、他人の言葉など、人生で避けにくい苦しみを指します。
これに対して、二本目の矢は、その出来事に対して「なぜ自分だけが」「もう終わりだ」「許せない」「こんな自分はダメだ」と考え続けることで、自分の心が追加してしまう苦しみです。
これを踏まえると、苦しみそのものを完全に避けることはできなくても、それにどう反応するかは変えられます。
この教えの核心は、一本目の矢は避けられないことがあるが、二本目の矢は気づきによって減らせるという点です。
つまり哲学は、「すべてを支配すること」ではなく、「変えられるものを見極めること」に自由があると教えています。
その2「真実の愛を見つければ、私は幸福になれる」
次に危険なのは、「真実の愛を見つけて初めて、私は幸福な存在になれる」という思い込みです。
現代の映画や恋愛物語では、どこかに自分を完全な存在にしてくれる“運命の相手”がいるかのように描かれることがあります。
これに影響を受けて、「自分はもう半分を必要としている欠けた存在であり、完成を待つジグソーパズルのピースなのだ」という信念を内面化している人も多いです。
これに関して、フランスの哲学者シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、自分を不完全な存在と見なし、他者によって完成されようとする考え方の危うさを指摘しました。
彼女が問題視したのは、愛そのものではなく、「誰かに愛されて初めて私は完成する」という考え方です。
彼女にとって人間は、最初から決まった本質を持つ存在ではなく、自分の選択や行動によって人生を作っていく自由な存在です。
そのため、「運命の相手が私を幸せにしてくれる」と信じることは、自分の自由や責任を他者に預けてしまう危険な態度になりかねません。
恋愛の中で、自分の夢や価値観や未来を手放し、相手に尽くすことだけで自分の意味を得ようとすると、その人は主体として生きるのではなく、相手の人生に従属する存在になってしまう、といいます。
ボーヴォワールが指摘したのは、恋愛を人生の救済装置にしてはいけないということです。
愛は大切です。
しかし、愛によって自分が完成するのではありません。
自分の自由、選択、仕事、関心、友情、価値観を持った一人の人間が、同じく自由な一人の人間と関係を結ぶとき、愛は豊かなものになります。
逆に、「私は不完全で、誰かに完成させてもらわなければならない」と考えると、愛は依存や支配に変わりやすくなります。
要するに、彼女が言いたかったのは、愛されることで完全な人間になるのではなく、すでに自由な人間として生きる者同士が、互いを選び合うことこそが本来的な愛だということです。

