その3「私には、一生変わらない”私”がいる」
3つ目の思い込みは、「私には、一生変わらない“私”がいる」という考えです。
人はつい、「自分はこういう人間だから」と考えます。
過去の性格、失敗、習慣、他人からの評価をもとに、自分という存在を固定してしまうのです。
しかし、「変わらない私」が本当にどこかにあるのかという問題は、哲学でも長く議論されてきました。
この考え方に対して、スコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒュームは、興味深い疑問を投げかけました。
ヒュームによれば、自分の内側をよく観察しても、永遠に変わらない「私」そのものは見つかりません。
そこにあるのは、思考、感覚、記憶、感情、欲望といった、移り変わる経験の連なりです。
つまり、私たちはどこかに固定された核を持つ存在というより、多くの経験が束になり、流れ続けている存在だと考えられるのです。
仏教の「無我」の考え方にも、これに近い発想があります。
私たちが普段「自分」だと思っているものは、変わらない実体ではなく、身体、感覚、記憶、感情、意識などが一時的に組み合わさったものだと見なされます。
もちろん、これは「自分など存在しない」と単純に言いたいわけではありません。
重要なのは、自分を過去の性格や失敗に閉じ込めすぎないことです。
人は変化し、成長し、考え方を更新できる存在です。
「自分はこういう人間だから仕方ない」という言葉は、ときに自分を守る盾になります。
しかし同時に、それは自分の可能性を閉じ込める檻にもなってしまいます。
哲学が教えているのは、「本当の私は一生変わらない」と決めつけるのではなく、変化し続ける存在として自分を見つめ直すことの大切さです。
その4「世界はきっと、私に意味を与えてくれる」
4つ目の危険な思い込みは、「世界はきっと、私に意味を与えてくれる」「私はこれを得る権利がある」という考えです。
人間は、「努力したなら報われるべきだ」「苦しみには意味があるはずだ」「善い人には善い結果が返ってくるはずだ」と考えたくなります。
しかし、現実の世界は必ずしもそのようには動きません。
努力しても報われないことがあります。
善良な人が不幸に見舞われることもあります。
理不尽な出来事が、何の説明もなく起こることもあります。
このとき私たちは、「なぜこんなことが起こるのか」「この苦しみにどんな意味があるのか」と問います。
しかし世界は、私たちの期待に合わせて動いてくれるわけではありません。
宇宙や自然の法則には、私たちに答えを示して、満足させる義務はありません。
この冷たさを正面から見つめたのが、アルベール・カミュの不条理主義です。
カミュのいう不条理とは「人生には何の意味もない」と単純に言うことではありません。
むしろ、人間の側には意味を求める強い欲望があるのに、世界の側は沈黙しているという緊張関係のことです。
そのため、「宇宙は私に何かを与えるべきだ」という思い込みは、カミュの立場から見ると危険です。
なぜならそれは、世界に対して「私の努力を認めるべきだ」「私の苦しみに意味を与えるべきだ」「私の人生を公平に扱うべきだ」と要求しているからです。
私たちが意味や答えを求めて、世界は沈黙を貫きます。
ここで重要なのは、カミュが「だから絶望せよ」と言っているわけではない点です。
彼は、不条理を見つめたうえで、なお生きることを重視しました。
『シーシュポスの神話』に登場するシーシュポスは、山頂まで岩を押し上げても、岩はまた転がり落ちます。
その作業は永遠に繰り返され、最終的な成功や報酬はありません。
しかしカミュは、シーシュポスが自分の運命をはっきり自覚し、それでも岩を押し続けるところに、人間の尊厳を見ました。
つまり、カミュにとって大切なのは、世界が意味を与えてくれるのを待つことではなく、意味が保証されていない世界で、それでもどう生きるかを自分で選ぶことです。
不条理を受け入れるとは、人生をあきらめることではありません。
「世界は私に報いるべきだ」という期待を手放し、理不尽さを見つめたうえで、自分の行動、愛、創造、反抗を選び直すことです。
その意味でカミュの不条理主義は、単なる悲観論ではなく、報酬や正解が保証されていない世界で、それでも誠実に生きるための哲学だと言えます。

