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6人の入管職員に「制圧」されガーナ人男性が死亡した事件の絶望から、社会を変える挑戦へ…弁護士・谷口太規が公共訴訟に取り組むワケ

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「自由」と「平等」の対立

谷口 今日は大澤先生の本を読まれて来てくださった方も大勢いらっしゃると思います。先生の研究は非常に多岐にわたっていますが、ご自分がしていることを何とご説明されていますか。 

大澤 それ、困るんですよね(苦笑)。ただ、自分の中では、ある意味、ひとつのことをやってる気持ちもあるんです。たとえば今AIというものについていろいろ興味を持っていて。「AIを鏡にして人間のことがわかる」みたいなことがある。 

谷口くんの話に近いところで言うと、ひとつの社会構想というか、僕らは社会主義や共産主義に対する夢を失ってしまって、その後、社会についての大きな展望をもう持てないわけですよね、この社会以外に。けれどもこれほど閉塞感がある状態もない。その時にどう考えればいいか。そういう問題含め、いろいろありますが、自分の中では意識してやってるわけじゃないけれど、自然といろんなことがつながってくる。「社会学をやっている」としか言いようがない。「人間について考えている」みたいなことですかね。 

谷口 資本主義とか、自由とか、そういうことがテーマになっていることも多いですよね。 

大澤 そうです。今僕らが生きている社会を一番基本のところで捉える際に、どういう言い方が最もいいかと考える時、僕の先生だった見田宗介先生(みた むねすけ、社会学者。ペンネームは真木悠介)は「近代社会」という言い方をしました。しかし今「近代社会」って言うと、内容がわかりにくい。 

見田先生が「近代」という言葉を好んだのは、当時は資本主義の体制と社会主義の体制(東西冷戦構造)があったので、そのなかで「近代資本主義」と言ってしまうと、「西側の体制」しか意味しないようなイメージもあったと思うんですけれども。 

でも、ある時代からの我々の社会の「資本主義」というのを、経済だけで考えてしまうと、少し弱い。むしろ経済は大きな氷山の一角で「我々の文化も含んだひとつの体系全体としての資本主義」と捉えると、現代をかなり基本のところから見ることができる。だから「資本主義」という言い方を使うんです。 

あと、自由という問題は、今日の話もすごく関係ありますけど、こう思うんです。 

20世紀が終わって、私たちは今21世紀にいるわけですけど、僕なんかの場合は人生の前半分以上が20世紀だった。その20世紀という時代に我々は何を一番の教訓として得たのか、と。それをものすごくざっくり言うと、やっぱり「自由な社会」以上のものはない、と。 

「自由を、自由以外のものを理由にして抑制する」ということが、いかに悲劇的な結果を生むか。 

具体的に言えば、冷戦というものがあった。冷戦とは、19世紀の初めくらいに近代が出てきた時に、自由と平等ということが言われた。そのふたつは、初めはあまり矛盾すると思われなかったんですが、どちらを優先させるかと考えた時、「平等の方を優先させる」と、社会主義となるわけです。ざっくりとした話。それに対して「自由の方を優先させる」と、資本主義となる。 

つまり「20世紀とは、冷戦があって、それが終わった時代」なんです。それを教訓として見た時に「やはり自由というものが、社会というものを考える上で、追求すべき最大の価値だ」となった。 

それがまた21世紀になって、別の意味で「人間に自由というものは、そもそもあるのか」というような大きな問題があるんですけどね、本当は。 

判断の帰属先としての「第三者の審級」

谷口 大澤先生は、「自由というものが至高のものだとしても、その自由というのはそう簡単に成立しなそうだ」と、私が受けていた「現代文明論」という講義でおっしゃってましたね。 

当時、先生は『〈自由〉の条件』という本を書かれていて、本を書くにあたって考えられていることをずっとつぶやき続けるという授業でしたが、「自由というものが成立しなそうな時には、どうやったら成立するのか」とお考えになっていたと思います。 

いろんな分析をするにあたって、最終的には「第三者の審級」という概念をいつもキーにして分析されているのかなと思うのですが、それについてご説明いただけますか。 

大澤 これは難しい。でも、ものを考えるということの、一番のクリエイティヴィティーのポイントになるのは「概念を発明する」ということ、これがすごく重要なんです。概念があって初めて考えることができるから。ただ、「第三者の審級」というのは、発明しようとして作った概念ではなくて、自分が考えているうちに自然と出てきた言葉なんです。 

「審級」というのは、割に法律的なメタファーになっているんですが、ものすごくざっくり言うと、日本人にはピンと来ないところもあるんですが、本当は神とか宗教とかの問題なんです。 

ある有名な社会学者の言葉があります。「宗教が社会現象なのではなくて、社会が宗教現象なのだ」と。つまり、僕らが意思的に何かの信仰を持っているかどうかは別として、人間が社会というものを営めているのは、広い意味での宗教現象なんです。有名な社会学者、たとえばマックス・ウェーバーとかデュルケムとかは、みんな宗教社会学者なんですよ。宗教社会学が即、社会学なんです。 

そういう宗教的な現象というものを考えるときに、どういう言葉で考えていけばいいのか。たとえば特定の宗教で「アッラー」とか、そういう言葉を使ってしまうと、その宗教のことでしか考えられないでしょう? 

宗教的な現象を一般的に捉える時、日本人でも普通に馴染みのある「第三者の審級」の一番プリミティブな形態は、たとえば「空気」です。「空気を読む」と言うときの空気。日本人にとっては「空気違反」ほど悪いことはないんですよね。「空気を読めない」というのが。でも「今、空気、何ですか?」と誰にも聞いてはいけない。誰かの判断じゃないんですよ。この場を自然と作っているものなんです。どの人でもない第三者的な判断で。それが、法律以上に強い拘束力を持っている。 

でも、逆に言うと、空気っていうものを乗り越えるためには、「空気よりも強い第三者の審級」が必要であったりする。あるいは「第三者の審級」自体も、乗り越えの対象なんです、僕にとって究極的には。 

それを考えるため、つまり、社会を一般的に考えるために、我々が社会的な判断をするとき、「何が正しいか」とか「何が望まれているか」とか、そういうことを考えるときに、「何を空気が望んでいるのでしょう?」みたいになる時の、その「判断の帰属先」なんです。それが「第三者の審級」なんですよ。 

谷口 ありがとうございます。この、ちょっと難しい概念を先生にお話ししていただいたのは、公共訴訟の現場とかで、時々「あれっ? これは『第三者の審級』じゃないか?」みたいに思うことがありまして、その意味でもちょっと、ご説明いただきました。 

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