学問を通じて、人生の最も深刻な悩みや苦しみに対抗できる
谷口 ところで大澤先生の本のタイトルは、めちゃくちゃカッコイイものが多くて、たとえば『行為の代数学』とか『恋愛の不可能性について』とか『美はなぜ乱調にあるのか』とか、普通の社会学者の本と違う感じなんですが、ひとつだけ、すごく大澤先生らしくないタイトルとも思える(笑)ストレートな、『私の先生:出会いから問いが生まれる』という本があるんです。とてもお気に入りの本です。これには先生の師匠である見田宗介先生との出会いが書かれています。この本を読んだ時に、「あ、私が大澤先生の授業を受けた時に経験したことと全く同じ経験だな」と感じたところがあって。そこの部分を読んでみますね。
「私が先生に出会ったのは一九七七年の春、大学に入学して間もないときだった」……大澤先生が入学されたのが1977年で、私は97年に大学に入ってるので、ちょうど20年前になるんですが。
先生は、学生たちの発表に先立って、まずはご自身の問題意識をはっきりさせたいとおっしゃり、講義を始めたのだ。先生の語りは流暢とは言い難いものだったが私はたちまちその内容に魅了された。講義を聴き、ノートをとりながら、胸の中に歓びが湧いてきて、ひどく自分が興奮しているのを感じた。
私は何に感動したのか、それははっきりしている。このとき、私が先生の講義を聴きながら感得したことは、生きることと学問をすることとが、一つになりうる、ということだった。生きていれば、人は様々な悩みや苦しみにぶつかる。それらに対処し、克服することと学問とは別のこと……だと思っていた。が、そうではないことを知った。学問をすることを通じて、人生における最も深刻な悩みや苦しみに対抗することができる、と。(『私の先生:出会いから問いが生まれる』より)
……というふうに書かれていて。
私自身、大学受験のために高校で英語や数学、国語とかを勉強していましたが、そういう、それまでの自分にとっての「勉強」というのと、大澤先生の講義を聞いた時に聞いた内容というのが、まったく違ったんですよね。そこに私も非常に驚いたことを覚えています。
「あっ、学ぶというのは、こういうことなんだ」と感じたところがあって。
ただ、その大澤先生の話というのは、真っ直ぐな一本の線にはなってないんですよ。すぐ、「ここで補助線を引いておこう」と言って、全然違う話に飛んじゃう(笑)。集合論であったり、アメリカのSF映画の話だったり、全く違う分野の話が次々に引用される。で、その授業を受けている時には、その筋がさっぱりわからなくて。
ただ、「ここで資本主義について分析されていることは、この人とこの人との間の関係にも適用できるな」みたいな、そういうアナロジーというか、全然違うところが結びつくような、そういう感覚をいつも持っていて。ふと気づくと授業中に別のことを考えている、という経験がものすごくたくさんあったんです。だから、筋としてはよくわからない部分も多かったですが、その所々で差し挟まれるエピソードというのが非常に刺激的というか、色々別のことを思い起こさせるっていう。
このご著書では、「先生というのは、『先に知ってる人』ではなくて、何か『問いを生む人』だ」と書かれています。振り返れば、大澤先生の授業も常に疑問符だらけの、「問い」ということを感じ続けていたな、と思っているんですけれども。大澤先生はどんなことを思って教えられていたんですか。
大澤 うれしいですね。僕にとって見田宗介先生がいかに大きかったか、ということがありますから。谷口くんが僕の授業で少しでも感じる部分があったとしたら、やはりこれは教えることの喜びで、これ以上のものはないです。
見田先生も決して普通の意味で講義が上手というわけじゃなかったです。シャイな人だったし、言葉になるかならないかぐらいの微妙なこと、なかなか簡単に分かるようなことじゃないことを言っているので、難しくて。
僕なんか時々、「先生、私に説明させてください。先生の言いたいことは、こういうことじゃないですか?」みたいに言いたくなることが何度もありました(笑)。
だから、見田先生も講義は上手じゃなかったんですけど、感動はしたんです。先生に比べれば僕のほうがマシかなと、ちょっと思ってるんだけど(笑)。
あなたの個人的な問題が、実は社会的な普遍性があるかもしれない
大澤 ただ、とにかく、やっぱり講義をするときにいつも思うのは、自分にとって非常に深刻に気になっていること、というか、「探求というものに自分を駆り立てている問題」というものを、そのときに言う、ということです。
「自分がこんなに気になっていることには、普遍的な意味があるはずだ。だから、そのことをみんなに納得してもらいたい」というような感じなんです。本当は、正直、あんまり講義の準備をしないんですよ。
谷口 それは知っていました(笑)。
大澤 どうせ、そのとき自分が考えたことを言っているんだから、誰かに教えてもらうことはない、みたいなこともあって、講義の準備をあんまりしなくて、ちょっとそれは申し訳なかったかなと思うこともあるんだけど(苦笑)。ただ、やっぱりそのほうが通じることもあって。
これはちょっと今日の話とも関係あるんですが、僕は話をするとき、けっこう寓話というものを重要視するんですよ。つまり、「煎じ詰めればこういうことになっちゃうでしょ」って一般論みたいに言っても、人には通じないんですよね、本当に。でもひとつの寓話的に語ったときに、人は「ああ、なるほど」と思うわけです。
なぜそれがこの公共訴訟と関係あるかというと、公共訴訟の問題で僕が一番重要だと思うことは、当事者はみんな「これは自分の個人的な問題だ」と思っているわけです。「自分はこんなことで嫌な思いをしている」と。
「でも、そのあなたの個人的な問題が、実はいかに社会的な普遍性があるか、公共性があるかということを証明するために、法というのがあるんです」ということだと思う。社会を変化させるときの鍵は、そこだと思うんですよ。
谷口くんがすばらしいなと思うのは、一方で、訴訟があったときに、その個人に寄り添うという仕方が半端じゃない。「そこまでやっていたら体もたないぞ」と心配になるほど、その個人に入れ込んでいるんです。その個人に入れ込んでいることが、そのまま今度はCALL4の形のように、一種の公共の問題になっていく、という、その両極ですよね。
すごく「私」の問題に寄り添える、という部分がなければ、意味がない。個人に寄り添えば寄り添うほど、なお一層社会的な問題でもあるという、そのつながりですね。
個人にとっては、自分の本当にただ個人的な悩みで、しかも無力感を感じている。「社会というのは絶対に動かない」と。
そういう個人と社会との媒介になるためには、その両極が大事です。今日の対談のタイトルの「〈ひとり〉から公共へ」です。「いかに〈ひとり〉のその固有性にこだわるか」ということが、「どうやったら公共につながっていくか」という。一見対立しているんだけど、そこが一挙につながっていく――それが公共訴訟というものの一番重要な部分だなと僕は思うんです。
構成/稲垣收 写真/伊吹早織

