政界再編が自民党を変質させた
折しも衆議院選挙が中選挙区制から移行したこの時期、自民党に女性議員が生まれた。それが野田聖子である。
「衆議院にも自民党の女性議員を」という公約を掲げた野田は、1993年7月の中選挙区時代の総選挙で初当選した。無所属の高市早苗とは当選同期だ。祖父は大蔵官僚から国会議員になった野田卯一、自民党内の真正保守派だと自負する。
「私は祖父のおかげもあって自民党の野田聖子だとまわりが勝手に思ってくれ、物心つかないうちから靖国神社に参ってました。なので、自然体でいられます。コアな支援者にも保守の人がたくさんいますが、変に右翼ぶる必要もありませんでした。
逆に外から自民党に入ってきた人は保守を意識する必要があるかもしれませんね。私はわざわざ右っぽいことを言わなくてもいいので、割とのびのびやって来られました」
政界は1990年代に入って小沢一郎が仕掛けた再編劇の幕あけとともに流動化していく。と同時に、自民党のあり様も変わった。
「私はまだ1年生議員でした。政界再編とともに下野し、自民党内に野党ではいかんという方針が根付いていきました。野党になったとたん、支援してくれていた農協では、これまでずっと理事長が表敬訪問してくれていたのに、事務局長に格下げになった。幹部からその手のぼやきが聞こえてきました。
で、私たち一年生にも、思想信条よりまずは与党であらねばならないという方針が叩き込まれたのです。与党になるためにはどんな禁じ手を使ってもいい。社会党の村山(富市)さんに抱きついて、ありえない連立政権を組んだのもその結果でした」
そうして自民党内の派閥が対小沢一郎で結束したという。
熊本県知事から衆議院議員に転じた日本新党の細川護熙が1993年8月、8党会派の連立政権を樹立した時期だ。閣僚経験のない知事経験者の首相就任は憲政史上初の出来事で、マスコミ各社の内閣支持率は軒並み70%を超えた。
人気を得た細川政権は当初、小選挙区と全国区の比例代表をそれぞれ250とし、全体で500議席という選挙制度改革草案を作成した。ところが自民党だけでなく、連立を組んだ社会党にまで反対され、選挙制度改革が前に進まない。
細川は自民党総裁の河野洋平との党首会談に漕ぎつけ、自民党案に近い小選挙区300、地域ブロックの比例代表200の小選挙区比例代表並立制に落ち着いた経緯がある。これが現在の小選挙区制の始まりであり、96年10月の衆議院議員選挙から導入された。
もっとも細川人気は今の高市とは違い、あっという間にしぼんだ。小沢は細川護熙、羽田孜と辛うじて政権をつないだが、ここで自民党の逆襲に遭う。
94年6月に羽田内閣の総辞職を受けた自民党は、細川連立政権に参加した新党さきがけや日本社会党を抱き込み、首相首班指名選挙で社会党委員長の村山富市に票を投じた。一方の小沢は自民党から海部俊樹を引き抜いて、村山と海部の争いになって決選投票にもつれ込んだ。
そして投票結果は村山261、海部214と僅差で、村山が首相に指名された。社会党の村山を総理大臣にいただき、自民党の河野が副総理兼外相、大蔵大臣にさきがけの武村正義という内閣の布陣である。
このとき自民党側では村山内閣で通産大臣となる橋本龍太郎や自治大臣の野中広務という経世会の重鎮が小沢対策を練ったと前に書いたが、もう一人、細川内閣時に党の幹事長に就任した森喜朗も村山の担ぎ出しにひと役買った。
森は安倍晋太郎の率いた清和会の四天王と呼ばれ、この頃から頭角を現わしていく。自民が政権を奪還するために一枚岩になった野田の言う文字どおりの「禁じ手」というほかない。ただし裏を返せば、自民党はそれだけ懐が深く、度量があったともいえる。
「自民党側の仕掛け人の中心は森幹事長と橋本通産大臣でした。そこで私はさすがに社会党の党首を担ぐのはおかしいと思い、造反しました。造反は1回生議員の頃からずっとです。私自身は真面目な保守だったんでそうしたまで。右翼だから社会党と組むわけにいかないと筋を通したつもりです。
君が代や天皇、自衛隊までダメって主張していた社会党の党首を総理に担げば、自民党の矜持がなくなるというスタンスを守りたかっただけでした。
それで選挙区の岐阜でも、なぜ一年生議員のくせに造反するのか、とずい分叱られました。 まだ中選挙区時代で自民党幹部が応援に来るのですが、ペナルティとして私のところはスルーする。
橋本先生が同じ選挙区で社会党から出ていた渡辺一雄を応援したり。すごい目に遭いました。それ以来、私は造反の繰り返しで、慣れっこになりましたけれど」
前に書いたようにこの頃、小沢一郎が新生党から新進党に衣替えし、渡辺美智雄に集団離党するよう誘いをかけたけれど、それもうまくいかなかった。高市が加わったリベラルズの動きだ。まさしく政界再編の嵐が吹き荒れ、自民党が変質していった。野田は嵐の真っただ中にいた。
「あの頃から自民党そのものが変わってきた面はたしかにあります。かつての自民党の考えは何でもありでした。野中広務先生や古賀誠先生は、国家より人に重きをおいて政策に取り組んできたように思います。
長く自民党を見ていると、以前はもうちょっと人道主義的な考え方をする人が多かった。また保守にも派閥があり、そのなかでハト派の加藤紘一先生がいたかと思えば、タカ派の石原慎太郎先生がいたり、小沢一郎先生のような方もいました。本当のハトや本当のタカが入り混じっていましたけれど、党内は統制がとれていました。
私はずっと総裁と喧嘩してきたけれど、自民党はおもしろいところで、選挙が終わったあと、『悪かったな、よく頑張ったな』と野中先生から声をかけられました。『その代わり二年生になったから、いちばん初めに政務次官にしてやる』とおっしゃってくださいました。要するに、飴と鞭を上手に使えていたのでしょう」
保守政党の転換点
自民党は成熟した大人の政党だといわれてきたが、いつしかその大人感が消え、子供っぽい保守思想が目立つようになった。自民党はいつ頃から幼稚になったのか。
「象徴的にいえば、野党に政権を奪われたあたりから、自民党の大きな変化が始まり、右にシフトしていきました。野党だった民主党はリベラルと見られ、マスコミが注目していました。そんななか、自民党の存在感が薄らいできていると危機感を覚えた人が、民主党と違ったとんがり方をしようと考えたのではないでしょうか。
そうしていかにも右っぽい政策や考えを羅列するようになったと感じます。つまり昨今いわれるようになった自民党の右傾化は、民主党政権ができてからでしょう。だから歴史的に浅い。とくに最近はなんちゃってタカ派が増えてきた気がします」
もとはといえば民主党は1996年9月、新党さきがけを離党した鳩山由紀夫や菅直人らが結党した政党だが、そこに小沢一郎が合流して09年9月、自民党から政権を奪った。野田の言う野党に転落して著しく右傾化していったのはこのときである。
いまや野田本人は党内の過激な保守思想陣営からリベラル派のような扱いを受けている。
高市政権とは一線を画しているように感じる。保守をどのようにとらえているか。
「私自身はもともと保守のつもりなのに、リベラルといわれるのが不思議で仕方ありません。そのほかに党内になんちゃってタカ派もいる。その人たちは、強く過激なことを言わなければならない。
だから中国に対して突っ張ったり、靖国神社に行って御神酒をあげたりする。それは私が考えている愛国とは違います。保守はそんなことしなくてもいい。
中国や韓国は地政学的に隣国であり、私たちがどこかへ引っ越すわけにもいかない。互いの関係はそういう幼稚なレベルでは語れません。日本がここにあるのはいわば運命ですから、その前提に立って外交をしなければなりません。
たとえて言うなら、極力地域社会できちんとルールを守ろうというあたり前の社会常識の下で共存するようなものといえばいいでしょうか。ゴミ出しの日を決めるとか、お互い誤解があればそれを解くよう努力するとか。そうして上手に賢くお互いが Win-Winになる関係を築くのが外交だと思います」
使い古された言葉ではあるが、大人の対応とでもいえばいいのか、台湾有事の存立危機事態発言以来、すっかり冷え込んでいる日中関係についても、その必要があるという。
「トランプ大統領が世界の警察という立場を放棄しているから、アメリカはあらゆる面で以前ほど日本を庇ってくれないでしょう。そんな日米関係で自国を守る必要性があります。
韓国と日本の関係が悪い時は韓国の人と対話をしなければならないし、私もそうしてきました。中国に対する姿勢も同じでしょう。外交は微妙なバランスの上に成り立つものなので、関係が悪いときこそ両国をつなぐ 1本の糸を切らないようにしなければなりません。
民間の方とのやりとりとかを欠かさずにやるとか。どこかを立てればどこかが立たずの繰り返しで、日本がそこを上手に押したり引いたりしながら生き延びていくしかないのです」

