テレビはまだまだトガっている。心に“刺さった”番組を語るリレー連載「今週のトガりテレビ」。今回は、テレビウォッチャーの飲用てれびが、テレビタレントの儚さについて考察する。
女性タレントは儚い仕事?
「女性タレントだけ何の作品も残らず死んでいくんですよ。それが儚いなと思ってやってます」
死んでいく――穏やかな言葉ではない。7月11日深夜に放送された若槻千夏と指原莉乃のトーク番組『指原千夏』(フジテレビ系)での、若槻の発言だ。
ゲストの山里亮太(南海キャンディーズ)が、「女性タレントさんって、いろんな職業のなかで一番流れも早いし、儚い仕事」と語ったのを受けた反応である。
芸人やアーティストには作品が残る。けれど、タレントにはそれがない。若槻はそう語った。確かに、グラビアアイドルやアパレル経営といった顔以外での、テレビタレント・若槻千夏の「作品」は何かと問われると答えに困る。この儚さの根源はどこにあるのか。
考えてみれば、テレビは長く、「見逃したら終わり」のメディアだった。番組だけでなく、そこで語られた話も失敗も評価も、多くが放送とともに過去へ流れていった。中でもバラエティ番組は、作品として残るドラマと比べ、「消えゆくもの」という性格が強い。
出演する芸能人も次々と入れ替わってきた。特に女性タレントの入れ替わりは激しい。「消えゆくもの」であるバラエティを体現する彼女たちには、時間の流れに耐えて残る仕事があまりないのだ。
記憶されても、記録されにくい。それがテレビバラエティとそこに生きるタレントの性質であり、儚さの根源にあるものだろう。
そうした現実に気づき「絶望」したと語る若槻は、一つひとつの出演番組を作品として捉える姿勢へ転じた。
「(若槻が出演している『上田と女が吠える夜』でも)なんで若槻さんはがんばるんですか? って言われるんですけど、それが一作品だから、って思うしかないんですよ、私は」
なるほど、番組内での若槻の言動は、しばしば編集側のポジションで立ち回っているようにも見える。自分が目立つよりも作品としての完成度を優先するスタンスから来ているのかもしれない。
“芸”だけが求められた昔との違い
若槻は、タレントが儚い存在だからこそ、編集者的視点から番組を作品化しようとする。
ただ、作品を残すことと、テレビに残り続けることは同じではない。作品や芸の記録とは別の形で、長くテレビに居続け、視聴者の記憶に残るタレントもいる。その代表格の1人が、若いころの若槻ともよく共演していた中山秀征だ。そんな彼が、6日の『耳の穴かっぽじって聞け!』(テレビ朝日系)でこう語っていた。
「昔テレビ出てる人って、芸は一流、たとえば歌手だったら歌は上手い、役者だったら芝居が上手い、お笑いだったら面白いだけでよくて、人としてはめちゃくちゃだった人が多いわけじゃない。でも今は歌がうまい上に、ちゃんとしてなきゃいけない」
勝新太郎らを例に挙げながら中山はそう語る。確かに近年の芸能人の「炎上」を振り返ってみても、芸能人には芸だけでなく、人格者であることも求められるようになっているのかもしれない。
ただ、違和感は覚える。かつて中山は、芸そのものだけでなく、芸能人との関係構築や芸能界の立ち回りの巧みさで存在感を示してきた。それが今、「昔は芸があればよかった」と語る。
中山のように、人間関係の潤滑油となる役回りが現場で重宝されるのはよくわかる。実際、中山は芸そのものだけでなく、芸能人との関係構築やテレビの現場での立ち回りによって、長く存在感を保ってきたタレントだろう。
ただ、こうした語りを聞いていると、その中山自身まで、いつの間にか「芸があればよかった時代」を代表する側に位置づけ直されているようにも感じる。
テレビ、中でもバラエティは、記録というより記憶のメディアだ。テレビタレントには記録として残る作品が少ないからこそ、こうしてあいまいな記憶のなかで、過去の立ち位置や評価が少しずつ書き換えられていくこともある。
中山が長くテレビに残り続けてきた事実と、現在語られる中山の芸能史上の位置づけが、いつの間にか重なって見えるのも、短期間で流れ去るテレビバラエティの性質と無関係ではないだろう。
一方で、記録として残りにくいバラエティのなかでも、その人にしかできない芸によって、視聴者の記憶に何度も新鮮な痕跡を残すタレントもいる。その一人が滝沢カレンだ。
6日に放送された料理番組『滝沢カレン&和田明日香のフィーリンきっちん』(TBS系)での、トマトをサイコロ状に切る場面でのやり取りが象徴的だ。
山本浩司(タイムマシーン3号)「どれぐらいの大きさに切るんですか?」
滝沢カレン「飴を舐めてる途中ぐらい」
別の回で滝沢は、鍋に入れる牛乳の量を「3年分の人間の目薬ぐらい入れてください」とも表現していた。

