読者が一人で物語を紡ぐ時代

数千回もの妊娠出産物語はなぜ紡がれたのか?
この不思議な快楽を、研究チームは、ある古い文学に重ねてみせます。
アルゼンチンの作家ボルヘスが、1941年に空想した「八岐の園」という物語があります。
それは、一冊の本のなかに、無数の”もしも”が同時に詰まっている、という奇妙な書物のイメージでした。
ある登場人物が死ぬ筋書きと、生き延びる筋書きが、枝分かれしながら、すべて同時に存在している。
ふつうの本では、とても表現しきれない夢のような形式です。
ですがAIの登場により、頭のなかで想像するしかなかった、この「無数に枝分かれする物語」が文字どおり実現してしまったのです。
これはすごいことです。気に入った物語があったとき、私たちはこれまで、それに似た次の一冊を、待つか、探すしかありませんでした。
でもAIがあれば、同じ物語の「別バージョン」を、望むだけ、望む速さで、いくらでも生み出せる。枝分かれする園を、自分の足で、好きなだけ歩きまわれるのです。
そして、なんとも皮肉なことに──この人が執着した『ドキドキ文芸部!』というゲームは、じつは可愛らしい青春恋愛ものに見せかけた、分岐と不穏な反復を核にしたサイコホラー作品でした。
もともと「枝分かれと繰り返し」でできた物語を、この人は、さらに何千回も枝分かれさせていた。
反復する物語を、反復して求める。入れ子の箱のような、奇妙な美しさがそこにはあります。
でも、研究チームがこの奇談から引き出した問いは、もっと静かで、もっと深いものです。
物語は、その長い歴史のほとんどを通じて、少なくとも二人の人間のあいだの、やりとりとして成り立ってきました。
亡くなった作家デイヴィッド・フォスター・ウォレスは、小説のことを「意識と意識の交換」と呼びました。
ふだんは言葉にできないことを、人間どうしが語り合うための手段なのだ、と。
作家のテッド・チャンも、芸術とは作り手と受け手のあいだのコミュニケーションであり、それこそが、ただ文章を継ぎ足していく自動補完には決してできないことだ、と論じています。
読者と作者の境界は、じつはインターネットの時代に、すでにだいぶ溶けてはいました。
ふつうの人が、好きな作品の二次創作を書いて公開し読者が感想を送り、作者がそれを受けて物語を変えていく・・・というように、書く人と読む人が、混ざり合っていく文化が育っていたのです。
けれど──自分だけのためにAIで物語を作り、自分だけでそれを読むとき、そこで起きるのは、もっと決定的なことです。
もう一人の人間、そのものが、消えてしまうと研究チームは指摘します。
自分でお願いの言葉を書き、自分で、生み出された物語を読む。物語をどこへ導くかも、それを味わうのも、たった一人で、完結してしまう。
研究チームは、この状態にひとつの名前をつけました。
「独我論的な読者=作者」です。
「独我論」というのは、「確かに存在すると言い切れるのは、自分の心だけだ」という、古くからある哲学の考え方です。
むずかしく聞こえますが、ここで言いたいのはシンプルなことです。
他人を介さず、自分ひとりのなかで、物語を作って、味わって、閉じてしまう。その閉じた輪のことを、こう呼んでいるのです。
ただし、この「独我論的な読者=作者」は、証明された事実ではありません。
今回の論文で研究者たちが、AIと読者の新たな関係を示す言葉として提案した概念です。
そして、かの人(ナツキのユーザー)が、なぜ数千もの物語を書いていたのか、本当の目的は誰にも分かりません。
自己の探求のためか、AI技術の調査のためか、それとももっと高尚な別の目的があったのかもしれません。
研究者たち自身、「すべてのAI創作がこうだと言いたいわけではない」と、繰り返し断りを入れています。
しかし、物語の続きを、人間の作者ではなくAIに求める動きは、AI時代の新しい読み方であると同時に、既存のプロ作家にとって痛みを伴うものでもありました。
小説の続きをAIに先回りされた作家の嘆き

論文には、ある同人作家の悲鳴が引かれています。
その作家は、自分の長編連載小説を、二週間おきに書いて発表していました。
ところがある日、長年のファンを名乗る匿名メッセージが届きました。
そのファンは、作家が新章を書き上げる前に、作者の文章をChatGPTへ入力し、ひっそりとAI版の続きを読んでいたと、打ち明けたのです。
作家はこれを知ったとき、「胸が痛んだ」と書いています。そして、AIを使われたことを「ひどく侮辱的で、自分の作品を踏みにじられたように感じる」と表現しました。
AIがくれる「すぐに読める」という魅力。その裏側で切り捨てられているのは、生身の人間が、時間と労力をかけて差し出そうとしていた、何かなのかもしれません。
いま見た作家の一件も、じつは大きな流れの一部です。
研究チームは、こうした「自分ひとりで完結する」物語の作られ方を、意外なものになぞらえます。ポルノグラフィの消費です。
これは「AIで物語を作るのは、ポルノと同じでいかがわしい」とか「有害だ」という話では、まったくありません。
彼らが言っているのは、両者の”かたち”がよく似ている、ということです。
自分の好みにこまやかに合わせられ欲しいときに、すぐ手に入り飽きるほど何度でも繰り返せ、そして他人との関わりを、ほとんど必要としない。
そういう消費のかたちです。
1990年代にインターネットでポルノが広まったとき、一部の論者は「これで人は、いっそう孤立してしまうのではないか」と心配しました。
AIで物語を作る営みが呼び起こす不安も、それとどこか同じ形をしている──研究チームは、そう指摘しているのです。
新しい技術が現れるたびに、人の楽しみは少しずつ、「誰かと分かち合うもの」から「自分ひとりで完結するもの」へと形を変えてきました。
AIによる物語づくりも、その長い流れに、また一つ加わろうとしているのかもしれません。
物語はこれまで、書いた誰か――もう一人の人間――と出会うための窓でした。
その窓が、自分の望みをそのまま映し返してくれる鏡に変わるとき、私たちは何を得て、そして何を失うのでしょうか。
その答えは、まだ出ていません。研究チーム自身、「データを眺めているだけでは、人がなぜそうするのかは分からない。次は、実際に人に会って、話を聞く必要がある」と、宿題を残して論文を締めくくっています。
ただ、ひとつだけ、確かに見えたことがあります。
57万件の会話の奥にあったのは、単なる「新しい物語の山」ではありませんでした。
そこにあったのは、”書く”と”読む”という営みが、これから思いもよらない形に変わっていくかもしれない――そんな、これまで見えなかった景色だったのです。
元論文
AI Fiction in the Wild
https://doi.org/10.48550/arXiv.2606.22748
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部

