突き詰めた“個人性”と“土着性”こそが世界に響く
世界をマーケットとして狙うからといって、漠然と「海外向け」のアニメを作ろうと考えた場合、「とりあえずニンジャを出しておこうか」といった安直な発想になりかねない。そこまでいかなくても、日本のローカルな文化や事情はなるべく表に出さず、どこの国でも通用するような話にしておいたほうが良いに違いないという判断になりそうなものである。
しかし、そういった発想は、どうやら致命的に間違えているのかもしれない。
ある文化における「オリジナル」は、個人性と土着性にこそ宿る。そういった文脈を脱色して、「一般的」な作品を作ってしまったら、誰にでも通じる作品ができるどころか、誰にも通じない作品に仕上がってしまうのが現実である。
もし、まったく異なるローカルの文脈を持つ国でも通用するカルチャーを生み出そうと考えるのなら、むしろ自国の文化をこそ突き詰めて深掘りする必要がある。彼方にある異邦の地・ナイジェリアで日本文化を前提にしたアニメが広く深く愛好されているファクトは、ぼくたちに改めてそのことを教えてくれている。
ナイジェリアで日本アニメが人気になる理由として、しばしば語られるのが「アンダードッグ(負け犬)」のストーリーが散見されるから、という点である。日本ではエンターテインメントの定跡として当たり前に受け入れられているヒエラルキーの下方からの逆転劇は、ナイジェリアにおいてはもっとリアルな意味を持つ。
日本において、ただ純粋に「面白さ」を突きつめるために考えだされた設定が、ナイジェリアの必ずしも楽ではない環境にいる若者たちを励まし、勇気づけることになっているわけである。
ルフィやナルトといったキャラクターたちの出自や物語は、日本においては、ほぼ純粋に架空のエンターテインメントして消費されていると言って良いだろう。だが、そこにみられる反骨と叛逆のナラティヴは、ナイジェリアの青年たちにとっては、自分たちの現実の人生を象徴するものとして受け止められているのだ。
たとえば、戦争と平和をテーマにした『ヴィンランド・サガ』のような作品も、アフリカにおいては日本とまったく異なる受け止め方がされているのではないだろうか。それはもちろん、『ヴィンランド・サガ』の展開がアフリカの視聴者を意識して制作されているということではない。真にあるテーマとコンセプトを深く掘っていけば、まったく異なる環境でも自然と通用する物語が生まれてくる、ということだ。
日本に住んでいるだけでは、なかなか分からないそういった事実は、だがどうやらそれこそ普遍的な真実である。
日本産のマンガやアニメがグローバルに受け入れられるようになった昨今、初めから世界的需要を考えてアニメを作るべきなのではないか、といった議論も盛んになってくるだろう。だが、間違っても抽象的な「世界」というマーケットを相手に作品を制作しようとするべきではない。
そのような作品は、かえって狙ったところを外してしまうはずである。必要なものは、個人性と土着性であり、ある作家が自分自身の欲望をどこまでも突き詰めることこそが、最終的には全世界の人間を感動させる物語を生み出すことにつながるかもしれないのだ。そう考えると、何か希望が感じられるのではないだろうか。
『イワジュ』などオリジナルアニメも誕生 進化を続けるナイジェリアのアニメ文化
とはいえ、そのような日本アニメの世界的な展開は、一種の文化的侵略として受け止めるべきなのではないか、と考える方もいらっしゃるかもしれない。
だが、ナイジェリアの文化はたくましい。ここにきて、実はナイジェリアのスタジオから、未来のナイジェリアを舞台とした新作アニメが生まれてきているのだ。日本でもディズニープラスで見ることができる『イワジュ』である。
この物語は、まさにナイジェリアのローカルなカルチャーを題材としている。40年にわたって日本アニメを受容してきた“ナイジェリアならでは”のアフリカンなアニメ映画――。こういった作品の実在を思うとき、文化とは決して一方的に「与える」だけのものでも、「受け取る」だけのものでもないことが実感として伝わってくる。
過去数十年間、日本は海外の優れた文化を「輸入」し、それを日本なりに受け止めて変質させてきた。ディズニーアニメに憧れた手塚治虫がテレビアニメの歴史を生み出したように。まったく同じことがナイジェリアでも起こっているわけだ。
日本のぼくたちはいまのところ、日本的な意味でのアニメを「輸出産業」として捉えていると感じる。だが、いつの日か、世界各地で作られた日本風のアニメを「輸入」して楽しむ日が来るかもしれない。
それはひとつの胸躍る未来である。未来のモンキー・D・ルフィやうずまきナルト、あるいは涼宮ハルヒは、いったいどこの国から生まれてくるのだろうか。わくわくしながら待つこととしたい。

