最新エンタメ情報が満載! Merkystyle マーキースタイル
なぜマイケル・ジャクソンはMVを「ショートフィルム」と呼んだのか――「スリラー」に込めた映画への執念

なぜマイケル・ジャクソンはMVを「ショートフィルム」と呼んだのか――「スリラー」に込めた映画への執念

「スリラー」「今夜はビート・イット」「BAD」といった代表曲のミュージック・ビデオ(MV)はまるで短編映画のよう……と、これまで語られてきた。現にハリウッド映画の有名監督も手がけたが、結局マイケルはそれらの映像を通して何がしたかったのか? “ショート・フィルム作家〟としての実像に迫る。

黒人版『オズの魔法使い』のカカシ

マイケル・ジャクソンは、自身のミュージック・ビデオ(MV)を 〝ショート・フィルム(短編映画)〟と呼んでいた。

この呼び方は単なる言い換えではない。1980年代から90年代にかけて、MVは音楽産業の中心へと躍り出たが、多くのアーティストにとってはあくまでアルバムを売るためのプロモーション・ツールに過ぎなかった。

しかしマイケルにとってMVとは、それ自体が独立した表現の場であり、アルバム以上に自らのヴィジョンを形にするためのメディアだったのである。なぜ彼はそこまで映像表現に執着したのだろうか。

理由は、マイケルが幼少期から叩たたき込まれたスター教育にある。彼と兄弟たちを見出みいだしたモータウン・レコードの創設者ベリー・ゴーディが理想としたのは、単なるシンガーではなく、歌って踊って演じられるエンターテイナーだった。

レーベルの先輩マーヴィン・ゲイやスティーヴィー・ワンダーが、アルバム制作を中心としたアーティストへと変わっていった後も、マイケルはダイアナ・ロスの弟分としてゴーディの管轄下でエンターテイナーになるよう育成されていく。そこで彼が学んだのは、古今東西のスターの妙技だった。

なかでも彼に強い影響を与えたのが、どれほど難しいステップも軽やかに踊ってみせるフレッド・アステア、特異な身体表現でブロードウェイに革命を起こした振付師ボブ・フォッシー、そして同じアフリカ系アメリカ人スターとして道を切り開いたサミー・デイヴィス・ジュニアである。

しかしマイケルが彼らの後を追おうとした時には、そのための舞台は失われつつあった。

ハリウッドではアメリカン・ニューシネマの時代が到来し、エンターテイナーではなく現実味のある人物をフィーチャーした作品が主流となっていた。華やかなミュージカル映画は時代遅れとされ、アステアも1968年の『フィニアンの虹』を最後に、ミュージカル映画から退いていた。

こうした状況下で孤軍奮闘していたのが、主演映画『ビリー・ホリデイ物語/奇妙な果実』や『マホガニー物語』をヒットさせていた恩人ダイアナ・ロスだった。

ロスが、アフリカ系アメリカ人版『オズの魔法使い』としてブロードウェイで人気を博していたミュージカル『ウィズ』の映画化に動いていることを知ったマイケルは、自らカカシ役に志願する。

この時の彼にとって『ウィズ』は、エンターテイナーとして銀幕に立つ、唯一に近いチャンスだった。だが1978年に公開された映画は、興行的には失敗に終わった。

マイケルにとっては、サウンドトラックの仕事を通じて知り合ったクインシー・ジョーンズとともに、本格的なソロ・キャリアを歩み始めるきっかけを与えた作品ではあったが、見方を変えれば、ハリウッド行きの夢を諦めたとも言える。だからこそ興味深いのは、その直後に訪れた時代の変化である。

ゼロ・グラビティとミュージカル映画

1981年、MTVが開局する。24時間MVを流し続けるこのケーブル局の誕生によって、ポップ・ミュージックは聴くものから視みるものへと変わり始めた。

そして、この変化は視覚込みで表現者としてはじめて完成するマイケルにとって、諦めかけた夢の実現を意味していた。彼にとってMVとは、オルタナティヴな銀幕だったのである。

その最初の宣言となったのが、1983年発表の「ビリー・ジーン」だった。マイケルは、この映像に自ら崇拝する映画へのオマージュを持ち込んでいる。

光るタイルの演出は『ウィズ』に登場する魔法の道〝イエロー・ブリック・ロード〟を思わせ、夜の街を舞台とした設定はフレッド・アステアが『バンド・ワゴン』で披露した「ダンシング・イン・ザ・ダーク」へのオマージュだった。

黒いジャケット、短いパンツ、白い靴下というシルエット、そして静止と急加速を切り替える鋭いダンスには、ボブ・フォッシーが振り付けを担当した『星の王子さま』でフォッシー自身が演じた〝ヘビのダンス〟からの影響が色濃く見える。

その結果、「ビリー・ジーン」は 〝映像込みで楽曲を楽しむ〟新しいポップ体験を生み出した。だが、それはまだ序章に過ぎなかった。

マイケルは「スリラー」によって、その表現をさらに先へ進める。ジョン・ランディスを監督に迎えて制作された約14分のこの作品は、もはや一本の短編映画だった。

冒頭には台詞付きのドラマパートが設けられ、特殊メイクによる変身シーン、群舞、オチに至るまで、すべてが映画の文法で作られている。マイケルは制作費の一部を自腹で持つほど、この作品に懸かけていた。

なぜなら「スリラー」で彼が目指したのは、MVというメディアそのものの映画化だったからだ。その狙いは成功する。「スリラー」以降、高額予算を投じたMVが一般化し、誰が監督したのかが注目されるようになった。

しかし、より重要なのは、マイケルのMVが豪華監督陣による作品として語られる一方で、その実態が当時の映画とは大きく異なっていたということだ。

たしかに彼のMVの監督には、前述のランディスをはじめ、マーティン・スコセッシ、スパイク・リー、ジョン・シングルトン、デヴィッド・フィンチャー、マーク・ロマネクといった錚々たる名前が並ぶ。これだけを見れば、監督陣の才能によって作品が成立していたようにも思える。

しかし実際にはこれらの作品は、往年のフレッド・アステア作品がそうであったように、あくまでマイケル主導のもと、コンセプトや演出、振り付けのアイデアが出されていた。このため 〝マイケル・ジャクソン作品〟として統一された世界観を持っている。

監督や制作年が変わっても、同じモチーフ、同じ身体表現、そして何より同じテーマが、形を変えながら何度も表れるのだ。だからこそ彼の映像群を並べてみると、そこにはいくつかの路線が浮かび上がってくるのである。

まず、第一に挙げられるのが、古き良きハリウッドやミュージカル映画への憧れを前面に押し出した“ハリウッド・オマージュ路線”である。マイケルにとってこの路線は、もっとも素直な表現だったと考えられる。

なぜなら前述の通り、彼が最初に憧れたスター像そのものが、クラシカルなエンターテイナーだったからだ。この傾向が最初に明確に表れたのが、前述の「ビリー・ジーン」だが、その傾向がさらに推し進められたのが「ザ・ウェイ・ユー・メイク・ミー・フィール」だろう。

この作品も夜の街を舞台とし、男女の駆け引きを軸に展開する点で、往年のミュージカル映画的な構造を色濃く持っている。

そしてこの路線の完成形と言えるのが「スムーズ・クリミナル」である。白いスーツ、フェドラ帽、煙の立ち込める暗いクラブ――その美術設計は往年のギャング映画そのものだが、そこへ加わる集団ダンスは、ボブ・フォッシーが監督した『スイート・チャリティー』の「リッチマンズ・フラッグ」の振り付けを強く想起させる。

だがマイケルはここで単に昔の映画を再現せず、その様式を分解し、再編集してみせる。象徴的なのが、45度前傾の〝ゼロ・グラビティ〟だ。床に縛られているはずの肉体が、重力から解放されたかのように舞う――ミュージカル映画スターの人間離れした優雅さを、彼はハイテク技術でさらに先へと推し進めたのである。

(集英社クオータリー『kotoba』2026年夏号より一部抜粋)

提供元

プロフィール画像

集英社オンライン

雑誌、漫画、書籍など数多くのエンタテインメントを生み出してきた集英社が、これまでに培った知的・人的アセットをフル活用して送るウェブニュースメディア。暮らしや心を豊かにする読みものや知的探求心に応えるアカデミックなコラムから、集英社の大ヒット作の舞台裏や最新ニュースなど、バラエティ豊かな記事を配信。

あなたにおすすめ