情報があふれ膨大な数の選択を迫られる現代社会。「選ぶことから解放されたい」という感覚は、音楽のストリーミングやファッションのサブスクサービス、生成AIによる最適解の形をとって、若者だけでなく全世代に波及している。だが「選ばないこと」を「選んだ」代償をいつか払うことになるのではと指摘するのが、シンクタンクで消費者行動を研究する、久我尚子氏だ。
書籍『選ばない消費 AI時代の暮らしと価値観』より一部を抜粋・再構成し資本主義経済の限界について考察する。
選択肢が多いほうが売上が減る
推し活とは、好きなアイドルやキャラクターなどを応援するための消費行動ですが、近年では選ばない消費と推し活が結びついた「ガチャ活」という動きが見られるようになりました。
何が出てくるか分からないカプセル玩具、いわゆるガチャガチャは、まさに選ばない消費の象徴的な例です。最近では、このガチャガチャで手に入れたフィギュアやアクリルスタンド、ぬいぐるみなどを集め、自分なりに組み合わせてカスタマイズし、その様子をSNSに投稿する人が増えています。
これは、「こんなのが出てきた」という驚きや楽しさが、さらに進化したものだと考えられるでしょう。
つまり、それぞれ単体ではただのフィギュアやぬいぐるみにすぎませんが、いくつかを組み合わせてみると、「思いがけずこんなにかわいくなった」といった発見や喜びが生まれます。
昨今のガチャ活は、選ばないことで偶然に出会う面白さを味わい、その出会いを自分なりに工夫して楽しむ、そんな選ばない消費の進化形といえるかもしれません。
似たような例を、もう一つ挙げておきましょう。「ブラインドボックス」という、人形やぬいぐるみが入った箱が人気を集めています。
この箱のいちばんの醍醐味は、開けてみるまでどんなグッズが入っているのか分からないところにあります。首都圏には「ブラインドボックス」の専門店もいくつかあり、「ラブブ」のような人気キャラクターを目当てに購入する若い女性が多いそうです。
けれども、お目当てのキャラクターでなくても、カプセル玩具より素材やデザイン性に優れていることから、十分に魅力を感じられるようです。「箱の中身はどんなコかな?」というワクワクを味わえるのが何よりの楽しみで、着せ替えができるものもあるため、「ガチャ活」のハイエンド版ともいえそうです。
なぜ、こうしたトレンドが生まれているのでしょうか。それは、私たちは「選ばないこと」を有効な選択肢だと感じているからだと思います。
2000年、アメリカ・コロンビア大学のシーナ・アイエンガー教授が「選択のオーバーロード仮説」を発表しました。これは、スーパーマーケットでジャムを6種類置いた売り場と24種類置いた売り場とで、どちらが多くのジャムが売れたか、という調査を行った結果に基づいています。
結果は予想される通り、6種類の売り場の方が、売上が多かったのです。
選択肢が多いと私たちは悩みが増え、ついには商品を手に取らない、という行動に至ることが証明されています。
このように、私たちは無意識のうちに「選ぶのは面倒だ」「選択肢は少ない方が楽だ」と感じています。消費において「選択肢は多い方が良い」という考え方は、失われた30年の中で少しずつ陳腐化していったのではないでしょうか。
こうした私たちの感覚は、実はプロフェッショナルの世界にも通じるところがあります。たとえば、プロ野球のピッチャーです。現代の野球では、膨大なデータ分析によって、どの場面で何を投げるべきかという「最適解」が、ある程度あらかじめ導き出されています。
しかし、ピッチャーがマウンド上でその膨大なデータをいちいち計算しているわけではありません。むしろ、データに基づいたキャッチャーのサインという「仕組み」に判断をゆだね、あえて自分では「選ばない」。そうすることで迷いを断ち切り、投げることそのものに集中して、最高の一球を投じることができるのです。
プロフェッショナルでさえ、最後はあえて「自分で選ぶこと」を手放し、信頼できるものに身をゆだねているのなら、私たちも無意識の声に、もう少し耳を傾けてもいいのかもしれません。
自分で選ばなければ、主体的に考えなければと、どこか焦る気持ちに駆られることなく、ときには「なんとなく」を認め、自分で選ばずに直感、無意識にゆだねてみる。そんな柔らかい姿勢が、悩みや手間をそっと減らしてくれるはずです。
自由を選び取った結果
私たちはなぜ「選ばない」ことを選ぶようになったのか、という問いは繰り返し考えてきたテーマの一つです。その背景には、選ぶことが持つリスクを避けたいという気持ちがあるように思います。
自分で選んだ結果、もし間違っていたらどうしよう、そうした不安から、あえて人に任せたり、選ばない態度を取ったりする。そんな行動原理を、これまでもたびたび指摘してきました。
では、選び取った結果が本当に間違いだったのではないか、と感じさせる出来事には、どんなものがあるのでしょうか。経済成長の影響を例に挙げてみたいと思います。
経済成長は「集団から個へ」という意識を社会にもたらし、大きな変化を促しました。経済成長が始まるまでは、私たちはひとりで生きるのが難しく、三世代や大家族で助け合いながら暮らすのが当たり前でした。
けれども、大勢で暮らすのは煩わしさもある、と感じ始めた人々は、世代ごとに住まいを分け、より小さな単位で暮らすようになりました。これが核家族化へとつながり、やがて単身世帯の増加へとつながっていきます。
ただ、その行動変容がもたらしたのは、暮らしの自由や快適さだけではありませんでした。結果として、無縁社会や孤独死といった、少人数やひとりで暮らすことに伴う新しい災厄も生まれることになったのです。
私たちは「みんなで暮らす煩わしさから離れ、もっと自分のペースで暮らしたい」と、より小さな単位の家族構成を選ぶようになりました。しかし、これは同時に、いざというときに手を貸してくれる人手が足りなくなる、というリスクをはらんでいたのです。自由を選び取った結果として、かつては自然に他の人が担ってくれていた役割や負担を、自分ひとりで抱え込まざるを得なくなったのです。
こうした思わぬつまずきは、経済成長から生まれた側面があるのかもしれません。経済成長が進む中で、ある程度、豊かさが広く行き渡るようになり、もうみんなで住まなくても、ひとりで暮らせる、と気づいた私たちは、その自由を手にしました。ただ、その裏側には思いがけないリスクも潜んでいました。
公害の問題と同じように、事が起こって初めて、その代償の大きさに気づくことは少なくありません。選ぶにしても、選ばないにしても、その先にどのような結果が待っているのかをあらかじめ想像し、備えておくことは、これからますます大事になっていくでしょう。
今、私たちが疑うべきなのは、この経済成長という考え方そのものではないでしょうか。

