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「被告」「身柄」はマスコミ用語、かつては731部隊も実験の被験者を「マルタ(丸太)」呼ばわり…。ジェノサイドを産む言葉の暴力性と「会話」の可能性。どうすれば共に社会で生きられるのか?

「被告」「身柄」はマスコミ用語、かつては731部隊も実験の被験者を「マルタ(丸太)」呼ばわり…。ジェノサイドを産む言葉の暴力性と「会話」の可能性。どうすれば共に社会で生きられるのか?

言葉は人を傷つけるだけでなく、ときに社会そのものを分断し、暴力へと導くことがある。一方で、言葉によって人は理解し合い、共に生きるための道を探ることもできる。哲学者の朱喜哲氏と、弁護士の亀石倫子氏が、司法と言葉、被害者と加害者、そして「普通の人として生きること」の意味について語り合ってもらった。
*本記事は2026年6月3日、MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店で行われたトークを編集、採録したものです。

言葉がジェノサイドを生むこともある

 『バラバラな世界で共に生きる』の中では、非-人間化の事例として、言葉遣いの変遷が虐殺、ジェノサイドのような極限状況にまで導いてしまうことがあるんだ、という話を紹介しています。

今、実際イスラエルがガザでやっていることもまさにそうですが、歴史上、いろんな場所で起きたジェノサイド、民族浄化とか大量虐殺という場合は、ほとんど絶対というか、いつも「被害者たちのことを人間扱いしない」レトリックがあるんです。

この本で紹介した1994年のルワンダで起きたジェノサイド(*1)においては、少数派のツチ族のことをフツ族の間で「ゴキブリ」と呼ぶということが実際行われていました。だから、「○○さんを殺しなさい」じゃなくて、「ゴキブリを駆除しよう」と呼びかけたんです。

あるいは第二次大戦中の日本軍でも、731部隊(*2)で、生きたまま人体実験に使う被験者のことを「マルタ(丸太)」と呼んでいました。

そして今、ガザ地区においてイスラエル軍の政府高官がパレスチナ人のことを「あいつらはヒューマン・アニマルだ」と言ったことが報じられていました。

そういうふうに、「非-人間化」、相手を人間扱いしないレトリックというのが、虐殺のような場面があるときには必ず行われている。「虐殺には、非-人間化が伴っている」と言っていいでしょう。

逆に言えば、「私たちは人間相手にそんな残酷なことができるほど野蛮ではない」と思いたいわけで、言葉をもって、そこを操作するわけです。

だから、「たかが言葉」ではあるけれど、実は言葉がいかに大事かという話を、私も論じているんです。そういう言葉の問題というのは、確かにすごく身近にあるわけですね。

亀石 そうなんですよ。ローティは、「言葉遣いということをケアすることによって、人々が会話を続けられるようにする」と言っていて、「会話を続けていく上でどういう言葉を使うかは本当に大事だ」ということが、この朱さんの本を読むと分かるんです。

同じ言葉遣いをするとか、彼らが使っている言葉遣いを学ぶ、というか、理解するというか、それが会話を続けていく上で、まず取っかかりになる、と思いました。

 すごく大事ですね。

でも、やっぱり「被告」とか「身柄」という言い方はマスコミ用語で、非常に危なっかしい言葉だと思いました。刑務所では収監されている人が、名前でなく番号で呼ばれていた、という話も。

*1 アフリカ東部のルワンダで1994年4月から約100日間続いた大量虐殺。フツ族によって、ツチ族が殺害され、犠牲者数は80万人~100万人と推計されている。

*2 正式名称は「関東軍防疫給水部」。満洲国(現・中国東北部)で軍医・石井四郎中将が率いた陸軍の研究機関で、兵士の感染症予防のため、給水を目的とした研究が行われていたが、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発もしており、中国人捕虜を生きたまま人体実験に使うなどした。

罪を犯した人に「罰を与える」だけでなく「いかに再犯を防ぐか」「更生させるか」も大事

 しかし、何のために司法ってあるんだろうと思います。特に刑事司法。「罪に対して、罰を与える」という発想があったわけですけど、今、司法の世界でも、その議論はだいぶ変わりつつありますよね。

亀石 はい、そうですね。

 昔の、それこそ古代のハンムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」みたいな、いわゆる「応報的正義」とか「応報的司法」という「やったことに対し、同じことをやりかえす形で償わせる」みたいな発想、つまり「罰としての司法」という発想がかつてあったわけですけど。

亀石 でも、「罰を与える」だけでは、すまないですからね。やっぱり、更生のための部分も大事で。

 まさにそこですよね。これが1970年代とかから芽生えてきた、いわゆる「修復的司法」という考え方で。「正義」という言葉がありますが、「司法」は英語でjustice、ジャスティス、「正義」と同じ言葉だ、という話をしましたが、「司法とは、ジャスティスとは何だ?」というときに、単に「罰を与える」ということじゃなくて、元に戻るわけではないんだけれども、どうやって、せめてバランスを取っていって、また日常に帰っていくことができるようにするか。起きた事件をなかったことには、できないけれども……。

亀石 そうですね。それと、再犯防止ですよね。社会のためには、「どうしたら、こういう犯罪を減らしていけるか」「どうしたら、この人がもう犯罪をしないでいられるか」ということも考えていかなくてはいけないし。

罪を犯して服役した人も、無期刑や死刑以外、いつかは刑期を終えて社会に戻るわけですから、「この人が更生して社会に戻るために、どうしたらいいか」を考える必要があります。だから「罰を与えるだけではない」という発想も大事です。

 そこですよね。逆に、被害者目線に立ったときに、「修復的司法」というのは、ある種、「和解」とか「修復」を目指す、という司法のプロセスですから、それだけを聞くと、「なんで被害者が加害者を許さなきゃいけないんだ?」と思ってしまうこともあり得ます。でも、これは非常に大事な話で。

さっきおっしゃったように、「被告」もそうですが、「被害者」とか「当事者」というふうに呼ばれている人が、未来永劫その立場に置かれなきゃいけないわけではないですよね。

亀石 確かに。

 本当は、司法の場を離れれば、いつまでも「原告」である必要はないわけですし、そうやってその人に、「被害者らしくない」とか「原告らしく振る舞っていない」というような非難が行われたりすることがありますが、そういう状態はよくないわけであって。

「修復的司法」には、「どうやって被害者が被害者でなくなれるのか」という話も含まれているんだと思うと、本当に深いというか、大事なコンセプトだと私は思うんです。

それはやっぱり公共訴訟、それが一番分かりやすいというか、大事な例だと思います。

公共訴訟の原告が訴えているのは、「私は大変な目に遭っている、私は被害者だ、私を特別扱いしなさい」ということじゃ全くなくて、タトゥーの彫り師の方とか、クラブもそうですし、あるいはコロナ禍の持続化給付金をもらえない話もそうですけど、「普通に扱ってくれ」と言っているだけです。

「なんで私は、この私であるだけで、あるいはこういう仕事をしているだけで、みんなと同じように扱ってもらえないんですか?」ということを言っていて、それを是正するために原告として名のりを上げているんで。

目指しているゴールは「普通の人として扱ってください」ということだと思うんですよね。そこで「被害者じゃなくなれる、当事者じゃなくなれる」、つまり「普通の人になれる」ということが、ゴールとして目指されているわけで。

だからこそ、「一部の少数者のためだけでなく、普通の人、みんな、マジョリティーのための訴訟でもあるんだ」というのが、公共訴訟のすごく大事な役割だと思います。

ですから、「修復的司法」のコンセプトは、一見、「加害者を許す」ことのように見えて、「そんなことは許せない」と思うかもしれませんが、逆からすれば、被害者がいつまでもそこにとらわれなくてもいいし、もちろん、自分の選択で、とらわれてもいいし、こだわってもいい。「だけど、日常に帰ってもいいんだ」ということが入っている、ということが、すごく大事なメッセージで。

こうした新しい司法観が、公共訴訟には象徴的に表れている、と思いました。

これは、実は思想的にも大きな意味があって。政治哲学とか、哲学の観点からも、非常に興味深いことをやっている、というのが、私自身がこれだけ公共訴訟に関心を持っている理由のひとつなんです。

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