今春、金沢21世紀美術館にて開催された「言葉でつなぐ、私と香り展」。
香老舗松栄堂(しょうえいどう)が主催する本展の目玉となったのは、千早茜さんの言葉とお香の香りのコラボレーションでした。
会期後半には、松栄堂のお香づくりの中核を担う調合師・藤本悌志さんと千早さんによる、充実のトークセッションが開催。
それぞれの創作の過程や裏話、プロフェッショナルとしてのこだわりまで、同い年のお二人の対話はどんどん広がり……。
聞き手に江南亜美子氏を迎え、大盛況となった同トークイベントを載録します。
進行・構成/江南亜美子 撮影/大道雪代 展示主催/香老舗 松栄堂 企画協力/TOPPAN株式会社
――本日は「言葉でつなぐ、私と香り展」の特別イベントとして、小説家の千早茜さんと、京都の香老舗 松栄堂の調合師である藤本悌志さんをお招きしてお話を伺います。その前に……千早さんのお召し物が華やかで、場をいっそう特別なものにしてくれていますね。
千早 加賀友禅作家の吉本大輔さんの着物です。実は義弟で、金沢でお話しする機会でもありますし、彼の着物を着たいと思いました。香りをテーマにした「白く馨る」という作品で、花はカサブランカです。半衿と足袋はレースを用いたもの。帯と帯飾りにしたアンティークの香水瓶は、先輩作家の村山由佳さんからいただきました。
――香りが立ちのぼってくる様子が視覚的にも捉えられて本当に素敵です!
では、改めてご紹介します。千早さんはこの「言葉でつなぐ、私と香り展」で、松栄堂の六つの香りからインスピレーションを得て、六編の短いテキストを紡ぐというコラボをされています。また、人気の「香り」シリーズでは、『透明な夜の香り』『赤い月の香り』につづく第三作『燻る骨の香り』を刊行されたばかり。こちらは前二作の前日譚で、シリーズの完結作とも伺っています。藤本さんはこの展覧会を主催する松栄堂さんでお香の製造にかかわる調合師でいらっしゃいます。まずはおふたりにコラボレーションの舞台裏をお聞きします。
千早 昨年二月に下北沢で同名の展覧会が開催され、ここ金沢にも巡回することになりました。松栄堂さんからの最初のご依頼は、五つの香りから五つの文章を書くというものだったんですが、これが結構難しくて。小説で香りについて描写する際は、実在する香りを嗅ぐわけではなく、頭の中のイメージを文章に落とし込むわけですが、展覧会はお客さんが会場で実際の香りを嗅ぐことになります。文章と香りがかけ離れているのも、ぴったりで近すぎると感じられるのも面白くないので、その距離感には気を遣いましたね。季節を感じられたほうがいいかなと春夏秋冬で四つの文章を書き、最後のひとつは京都という場所をテーマにしました。今回、金沢のイメージの香りと文章がひとつ増えています。
藤本 下北沢でご好評をいただき、別の場所でも開催したいと考えたとき、日本の香りの文化、歴史、原料やその制作過程、そして香の楽しみ方を知っていただくのには金沢がふさわしいだろうと思いました。金沢21世紀美術館の展示スペースが下北沢より広いこともあり、メイン展示の千早さんとのコラボはひとつ増えて六種類に。本に挟まれた「香りの栞(しおり)」を嗅ぎながら言葉を読むというものです。他にも新たに「Incense Maze‐香りの迷路」という参加型コンテンツを展開しています。テスターの香りを嗅ぎながらゴールを目指すのですが、ふだんの生活ではあまり意識しない嗅覚の精度を試してもらう狙いがあります。
千早 今日は、コラボレーションの文章制作のための作業ノートを持ってきました。見返すと生々しいですが、まず香りからイメージされる単語を書きだしていったんです。カレー、南国、石鹸(せっけん)、若葉、あと仁丹とか。熟れた果実という言葉もあります。音楽大学出身の友達にも協力してもらい、これは管楽器だとか、硬い音、中低音などと音のイメージも足しました。それら単語群をいったん寝かせておき、体調がいいときを狙ってもう一度嗅ぎました。体調や環境によって、感じる香りのイメージはすごく左右されるので。そのあと単語を情景に転換していきました。感情の強弱があとからでもわかるように、この作業は手書きじゃないとダメなんです。二か月後ぐらいに文章に打ちだしました。
――熟成期間を経て、最終形はすぐ決まりましたか?
千早 小説では読者に香りを自由に想像してもらえればいいのですが、今回はお客さんに答え合わせをしてもらうことになるので、結構不安があって……。他の人の意見も参考にしたくて、連載担当の編集の方にお香の実物と私の文章を送りつけて意見をもらいました。
――いまちらっと拝見したら、エクセルシートなのが面白い(笑)。データ分析のようです。
千早 香りの現物があることは面白いけど難しいと感じましたし、改めて小説は幸せな世界だなと思います。
――実物の香りから言葉を紡ぐというアプローチの千早さんのお話でしたが、藤本さんはその逆で、あるテーマをもとに香りを作るお仕事ですよね。たとえば「金沢」というお題から香りを調合するというように。私は今日金沢駅に降り立ったときにそれを意識してみたんです。でもクリーンな都会でいい意味で無臭だから、具体的な印象が湧かなくて。街をテーマにして香りを作るプロセスとは、どういうものですか?
藤本 じつは香り作りも、答えがないほうがやりやすいんです。誰でも知っている匂いの香水を作るのは難題で、抽象的なイメージが起点になるほうが簡単。以前、あるアーティストとのコラボレーションで「シカゴの香りを作る」という依頼を受けた際には、まず関連した言葉をずらっと並べました。千早さんは香りから、私は街のイメージからキーワードをたくさん用意するので、方向は逆ですが、方法は似ていますよね。そしてキーワードにマルをつけます。大きいマルは強く、小さいマルはアクセントの意味。アーティストがくれたキーワードには、古いバー、スモーキーな煙草、ブラックカルチャー、そこでのダンスといった言葉があったので、自分なりに連想して古い木とお酒の香りを組み合わせていきました。「こんなのでどう?」「いや、もっと違う」というやりとりを重ねて完成、という流れです。
千早 それは実際にシカゴに行ったほうが作りやすいですか? それとも、行かないほうがいいのでしょうか。
藤本 最初は行かずに作っていたんですけど、結局、現地のバーで一緒にわいわい騒いで、最終形を仕上げましたね(笑)。
千早 やっぱり体験が入らないと香りにしづらいですか?
藤本 自分の感覚の方向性の正しさを確信できたという利点はありました。
千早 私は物語を書くとき、現地に行かないと書けないところがあります。さっき江南さんが金沢駅が無臭だったとおっしゃいましたが、小説は匂い以外にも湿度や色、光や影を付け足せますよね。瀬戸内の物語なら絶対に独特な海の色や風を書きたいし、北陸の物語なら湿り気を描写したい。説得力のためにその土地を訪れたいと思っています。
生き血と骸
――さっそく千早さんの新作について伺います。「香り」シリーズ三作目となる『燻る骨の香り』は、京都の香老舗・瑞雲堂を営む一族の娘・真奈(まな)が視点人物。彼女の妹で、稀有(けう)な才能を持つ調合師・丹穂(にお)の葬儀のシーンから物語が始まります。丹穂のお骨から伽羅(きゃら)の香りが立ち上って一同騒然となり……。いやおうなくサスペンス的なムードが高まるわけですが、今回京都が舞台となることで、盆地であるがゆえの暑さ寒さ、湿度の高さなどが克明に描写されていますね。この設定はどのように思いつかれましたか?
千早 実は松栄堂さんには、ずいぶん前から取材をさせていただいていました。シリーズの一作目『透明な夜の香り』の連載が始まったのは二〇一八年ですが、その頃にはお仕事をされている香場(こうじょう)にお伺いして、藤本さんにお話を聞いていました。ですが、香の世界はあまりに奥深くて結局『透明な夜の香り』には書けず、二作目の『赤い月の香り』の連載前、二〇二一年にもう一度取材に伺ったんです。松栄堂の当時の社長さんにもお会いして、気さくに「あれ見て」「これ見て」と香木などについて説明いただき、おやつまで出してもらったのに、次作の『赤い月~』にもお香の話は盛り込めなくて……。編集者から促され、今回やっと満を持して書きました。お世話になった社長さんがお亡くなりになられたのが残念です。
藤本 そうでしたね。
千早 香水を作る調香師の方の取材もしていたのですが、調合師って、まったく別ものなんです。今回は調合師の物語でもあるので、松栄堂さんに監修していただきました。
――まず調香師と調合師のちがいはなんぞやという話ですが……。
藤本 『燻る骨の香り』は、下手な入門書より相当わかりやすく書かれているので読んでいただくといいのですが(笑)、みなさん、香水とお香の最大の違いはご存じでしょうか。香水は基本的には常温で香る香りです。体温に乗って三〇度から四〇度のあいだで香りが発散される。それに対してお香は火をつけますから六〇〇度ぐらい。加熱されたときに香りを出す必要があります。香水の作り手を調香師、お香のほうを調合師と呼びます。香りによって揮発する温度は違い、燃やすことで初めて使える香りもいろいろあります。たとえば「沈香(じんこう)」は樹木からでた樹脂が凝結し、成熟した天然香木のことですが、火をつけることでいい香りが出るので、香水では表現が難しい。
千早 「香り」シリーズの小川朔(おがわさく)は、化学物質でできた人工香料をあまり使わず、植物などの天然素材を蒸留したり圧搾したりして作る精油を使う調香師です。一方お香の香原料は、いまおっしゃった香木に加えて樹皮や樹脂や生薬が多いのですが、基本的に茶色くてかさかさしてますよね。なので私は、「精油は生き血、香原料は骸(むくろ)」と取材ノートに書いていました。
――骸の比喩は秀逸ですね。
千早 朔は植物の生き血を吸うバンパイアのイメージです。
藤本 フレッシュさがないという意味では骸に近いかもしれないけれど、熟成されたもののよさや、エッセンスにならない不純物のよさが、お香にはありますね。
千早 そう、奥深さでは骸が上なんです。今日の着物にも松栄堂の「lisn(リスン)」というブランドのお香を焚きしめておいたら、着付けの方にいい匂いですねと言ってもらって。絹に骸を潜ませる感覚ですね。
藤本 lisnでは、香水の要素を取り入れつつもベースに必ず漢薬香料を使うというハウスルールがあり、それがこだわりですね。
――香水とお香は、使い方もですが、気持ちを上向きにする/鎮めるなど、用途も違いますよね?
千早 取材の過程でいろんな編集者と一緒に調合体験をしましたが、みんなお香には「結界」感があるという感想でした。それこそマンガの『呪術廻戦』のように、自分の範囲を広げて「領域展開」をする感じ。香水はもっと近くて自分の肌の上にある香りなので、そこにエロティックさもあるんですが……。お香はまるで能舞台のようです。
藤本 たしかに香水は服を着るように自分を香りで染める。お香は空間を染めて自分をその中に置く。使う意図が違うかもしれません。
千早 お香を寝室で焚くと一日目は強く感じ、二日目は部屋に潜みます。寝返りを打って空気が揺れると香ってくる。暗闇で香りがむくりと立ち上がってきて、まるで幽玄の世界です。話がちょっと変わりますが、お香の香原料を手に持っていると体質なのか指がじんじんしてくるんですよ。生薬でもあるからですかね?
藤本 私たちも、お香を作る製造現場ではマスクとゴム手袋をしますよ。
――製造現場というと化学の実験ラボを想像してしまうのですが、実は藤本さん、いわゆる理系のご出身ではないんですよね? 意外な気がします。
千早 日本の調香師は化学畑出身の方が多いですね。
藤本 調香師が化学構造式で話ができるのは、常温がベースだからです。熱をかけると化学構造式は役に立たなくなるので、やはり自分なりのレシピを構築しないといけない。ひたすら焚いて燃やして、香りを頭にインプットしていく勉強方法になりますね。私たちは音、温度、あるいは別の比喩で香りを表現します。
千早 たしかに調合師は味や音で香りを語りますね。かつての木造建築に比べて現代のマンションは気密性が高く、そこでお香を焚くと香りが強く残ります。それを「うるさくてしゃあない」と表現した方もいました。
――そうして製造現場にこもっているかと思えば、原料調達のために世界中を飛び回ってアクティブに動くのも、調合師さんのお仕事だそうですね。
藤本 そうなんです。小説にも出てきますが、お香の原料は日本でとれない。ほぼすべて輸入なので、板前が自分で市場に行くように、安定した原料を調達すべく責任者が自ら仕入れるんです。現地に行って買い付けをし、その場で箱詰めして送るなんてこともしています。
千早 藤本さんは冒険者なんですよ。いつも日焼けしていて、身体も鍛えていて、いつぞや香場でお会いしたら懸垂したりしてて(笑)。
――調香師の朔とはちょっと違いますかね。
千早 彼はたぶん日焼けもせず、懸垂もできなそうです……。
スイッチを切りたい
――いま自然環境の変化がすさまじく、同じ場所で同じ品質の原料がとれなくなったり、トレーサビリティ的にNGになったりしたものもあるかと思います。歴史のあるお仕事に対して、藤本さんはどう考えていらっしゃいますか。
藤本 以前は使えていたけれど今はダメなものは、いくらでもあります。たとえばムスク(麝香(じゃこう))がそう。香りの世界ではよくあることなので、作れなくなった商品はすっぱり諦めて、新しいものを作ればいいと私は考えています。
――伝統を守りつつ刷新していくわけですね。その際、小説にも書かれていましたが、レシピの伝承はやはり一子相伝、企業秘密ですか。
藤本 一子相伝と決まってはいませんが、弊社の場合は一世代に一人の調合師なので僕の師匠は父親世代です。お香の製造方法自体は、中国から伝わってきたものですから基本的にはどこも同じです。ただ香りの配合のレシピは企業にとっても要(かなめ)なので、社内でも限られた人しかアクセスできません。しかも調合師以外が見てもわからない暗号で書かれてます。
千早 暗号で! 松栄堂には現在おふたりの調合師がいらっしゃるそうですが、同じ電車で移動しないと聞きました。
藤本 はい、同じ飛行機にも乗らない。
――いっぺんに死んでしまったら会社存続の危機なんですね……。
千早 ライバル会社に狙われるとか、ないんでしょうか……?
藤本 さすがに僕も命を狙われたことはないですけど(笑)、たしかに調合師がいなくなれば、新しい香りは作れなくなりますね。
千早 後継者は鼻のよさで選ぶんですか。それとも、好奇心の強さとか。
藤本 私自身が鼻ではなく原料調達の戦力で採用されたので、体力かな。私は松栄堂に入る前に、JICA海外協力隊でザンビアにいたんです。千早さんとそこもご縁があります。
千早 私もザンビア育ちなので。以前藤本さんがアフリカの香りの商品を作って送ってくれたことがありました。たしかに嗅いだら、ザンビアの赤土とか巨大な夕陽が思い浮かびました。
――話が小説から離れていますが、せっかくなので藤本さんの香りを作る際のルーティンを教えていただけますか?
藤本 まず裸足になります。
千早 取材で作業机のあたりを見せていただいたときも、スリッパが転がっていましたね。そのとき、冬場でも裸足と聞きました。
藤本 社員も知らない事実です(笑)。というのは、頭のスイッチを切り替える必要があるから。朔さんじゃないけれど、香りのことばかり考えていると頭を使いますし疲れもします。長くても半日ぐらいに制限しようと決めていて。その中でも研究室で香りを作るモードに切り替えたいとき、最初は瞑想をしていたんですが、裸足になると意外といけると発見したので今はそうしています。
千早 嗅覚のスイッチは頭にあるとおっしゃいますよね。
藤本 そうですね。
千早 そこがプロだなと思います。私は鼻がいいほうですが、スイッチがないぶんどこでも匂いが入ってきて、ううう、となってます。スイッチを切りたい、でも切れない。お会いした調香師さんもみんな切り方を知っていて、すごいですよ。
藤本 本当にスイッチを切っているときは、妻が「ちょっと焦げくさいね」というのを聞いて初めて気が付くぐらい鈍感です。
――逆に、嗅覚の精度を高める訓練はありますか?
藤本 いろいろやり方がありますが、まずはひたすら鼻を使う。たとえばカレーを食べたとき、これはカレーだと鼻で意識するのを繰り返します。嗅覚は意識しないと忘れられちゃうものなので……。
千早 私も「香り」シリーズを書く前は匂いの言語化の練習をします。感じたことを言語化するのを癖づける。じゃないとこの世界には入ってこられないです。
――小説は基本的に紙の上の文字でしかなく、絶対に本自体は香りません。でも読者は、読むことで脳内に香りを覚えたりする。考えれば不思議なことです。私たちの共感能力の表れですし、その共感力を引き出す作家の工夫もきっとありますよね。
千早 他人にはなれないので、他人がどう感じるかは不確実です。私はたぶん一般の人より嗅覚が鋭く、言語を扱ってきたから表現の幅がある。だからこそ伝わるかどうか、何度も表現を練り直します。たとえば取材メモを何か月後かに読み直し、自分で脳内に香りを再現できなければ使わないとか。編集者や夫にいろいろ聞いたりもします。逆に、この言葉から人はこういうものを連想するというセオリーがあるので、個人的にはあまり使いたくない月並みな表現を、あえてちょっとだけ入れる手も使います。
――読者を置いていかないために解像度をさげるというか、紋切型の力を借りるんですね。
千早 そうしないと、主人公がめちゃくちゃ独特で変なやつになっちゃうんですよ。取材のメモに「海の底のバナナ」とあり、これはたしか銀座の聞香体験で嗅いだ沈香の香りを表現したんですが、さすがにそれは使わずに「潮っぽい」と書くとか。香りの表現にはとても気を使いました。

