「胸を刺されたのだから、死因は刺し傷に決まっている」。そう思いがちだが、司法解剖では一見明らかな事件でも、頭部から足先まで全身、すべての臓器を調べ上げる。それは、犯人の証言が真実かどうかを科学的に証明し、裁判で揺るがない証拠を示すためだ。医学部生でも解剖で倒れることがある過酷な現場、法医学者に求められる意外な資質、さらにはドラマ『アンナチュラル』に憧れて法医学を学び、夢を叶えた卒業生まで――。『法医学教授が教えている 死体の授業』から一部を抜粋、編集し、法医学の知られざる世界を、現役法医学者が語る。
医学部生だって解剖で倒れる
人体の構造を理解するため、医学部では解剖実習が必須科目になっていますが、実習で使用される「ご遺体」はその方の生前の意志で献体として提供されたものです。
対して、法医学を専攻する医師は、病気以外の原因で死亡した「異状死体」の解剖を通じて、死因を究明する技術を学んでいきます。
私が大学で教えている法医学の講義では、解剖見学は希望者のみに限定していますので、ここ数年は解剖見学で失神するような学生はいません。おそらく、「これから異状死体に向き合うぞ」と覚悟した学生だけが見学することと、解剖が皮膚の切開からはじまって順に臓器をみせていくため、心の準備がしやすいのでしょう。
むしろ、倒れる学生が多いのは解剖ではなく講義の最中です。異状死体の写真をスライドで呈示しながら教えるのですが、そこで気分が悪くなってしまう学生は数年に1回程度はいます。
では、私自身は学生時代から解剖が平気だったかというと、実はそんなことはありません。
法医学を志していた学生時代に司法解剖に何回か立ち合ったのですが、最初の数回はまったく平気でした。ところが、何度目かの解剖見学で、真っ黒の焼死体が運ばれてきたときは見学中に倒れてしまいました。
理由は単純、感情移入してしまったのです。黒焦げになった焼死体を目の当たりにして、「ここまで焦げてしまうなんて苦しかっただろうな」「さぞ熱かっただろう」と想像を巡らせていくうちに直視が困難になり、気分も悪くなって解剖室で座り込んでしまい、途中退室せざるを得ませんでした。
今の自分であれば、「体が焦げたのは死後なのだから、熱いもなにも当人は感じなかったはずだ」と冷静に判断できますし、それよりも「気管の中に煤を吸ったあとは残っているか」と医学的に考えるのですが、まだ死体に慣れていなかった当時は見た目の印象だけに引っ張られてしまったのだと思われます。
疑い深い人間ほど、法医学者に向いている
このように少々特殊な側面をもつ法医学ですが、プロフェッショナルとしては一般臨床医にはない、よい点や有利な点もあります。
第一は、全身・全臓器を診られるオールラウンダーになりえること。一般臨床医は、日常的に自分の領域の病気しか診ません。眼科医であれば眼の病気だけを、皮膚科医は皮膚の病気を専門に診るため、取り扱う疾患が限られます。消化器内科・外科は胃と腸がほぼメインです。
しかし、法医学者は毎回の解剖で全臓器を必ず検査します。頭を打って頭部外傷で亡くなった人であっても、脳だけではなく、肺、心臓、肝臓、小腸、大腸まですべてをみます。なぜなら、司法解剖においては裁判に備えて、死因以外の臓器に「異常があるか、ないか」を明確にする必要があるからです。
たとえば、何者かに胸を刺されて亡くなった人がいるとします。誰がみても「胸を刺されたのだからそれが死因だ」と考えるでしょう。
けれども、捕まった犯人が「いえ、僕が刺したのはすでに亡くなっていた死体です。脳出血が死因だったのでは? 頭の中は調べましたか?」と言い出したらどうでしょう。
もし解剖していなければ、脳出血の可能性を否定できないため、犯人は無罪になります。よって誰かがその証言の正誤をたしかめなければなりません。
そのために司法解剖があるのです。死体の体を開き、すべての臓器を検証して、「心臓には刺創があり大量出血のあともあったが、脳やほかの内臓はすべて無傷でした」と専門家が証明することによって、司法は正しく次のステップへと進めるからです。
全身を診ることは法医学の大原則であり、だからこそ法医学者はオールラウンダーになれるのです。
「まさかこんなことで死ぬの?」というような思いもよらない原因で死んでしまうことはめずらしくありません。そのような法医学の特性を考えると、素直な人はあまり適性がないでしょう。
むしろ常識を疑ってかかることができる、猜疑心の強い人のほうが法医学の世界には適性があります。
また、人はいつ、どこで亡くなるかわかりませんので、なにによってその死因が引き起こされたかを知るためには、専門知識に加えて、自然環境や政治経済、流行、機械のしくみ、ものづくりの作業工程、動物の習性、家事、資格、賭博、風俗など、ありとあらゆる事柄についても関心をもてる、知的好奇心の旺盛な人が向いているように思えます。

