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高市政権の国会運営はなぜ「史上最低」と酷評されたのか…大島理森元衆院議長が語る30年以上続く日本政治の迷走

高市政権の国会運営はなぜ「史上最低」と酷評されたのか…大島理森元衆院議長が語る30年以上続く日本政治の迷走

バブル経済の崩壊と冷戦終結は、日本の政治を根底から揺さぶった。リクルート事件が逆風が吹く自民党は、平成元年に海部俊樹政権のもとで政治改革に乗り出すが、その過程で小沢一郎が台頭し、93年の総選挙にて自民党が議席の3分の2弱を確保し続けてきた55年体制は崩壊に至った。

長年自民党の中枢で国会運営を担い、政界の裏表を知り尽くす大島理森元衆議院議長の証言から、「海部政権以降」に始まり、現在の高市政権まで続く政治の混迷を読み解く。

30年以上続く「政治の迷走」はどこから始まったのか

日本政治の溶解は、土地や株の価値が異様に膨らんだあぶく経済の崩壊とともに1990年代初頭から始まった。

自民党を割って出た小沢一郎が陰に陽に政界再編の糸を操っていたのはその通りだが、一方で自民党保守政治はここから崩れ落ちていく。

ここから先の政界の混乱は今もって収拾していない。失われた時間は経済だけの問題ではなく、政治の世界も同じだ。

唐突な衆院解散から総選挙に打って出て自民党史上最大の議席を得た高市早苗政権に危うさを感じるのも、30年以上も続いている日本政治の迷走ゆえなのであろう。

高市政権で2月18日に召集された特別国会は、例年の通常国会と同じく150日を会期として始まった。振り返れば、首相の国会運営における稚拙さが際立ったというほかない。

自ら衆院解散、総選挙を仕掛けて国会の開催を遅らせておきながら、令和8(2026)年度予算の成立を急がせた。しょせん無茶なスケジュールだったのだが、加えて2月末には米国とイスラエルによるイランの爆撃が勃発し、中東のみならず世界中が大混乱に陥る。

ところが高市政権では、ただでさえ物価高騰に苦しんできた庶民などお構いなしだ。案の定、2026年度予算の成立は年度を跨ぐ。補正予算をはじめとした国内の景気対策が完全に後手にまわった挙句、国会スケジュールそのものが狂っていく。

そうしているうち当の首相自身が選挙のネガキャン動画問題で立ち往生する。首相が国会に出て来ない異常事態となり、法案審議が空転する始末だった。

そこまで混乱した裏には、国会でこれ以上の醜態をさらしたくない女性宰相の脆さが垣間見える。特別国会の150日のあいだ、高市の国会運営は史上最低と酷評される場面まであった。

そして特別国会の終盤に差し掛かって法案審議が大渋滞し、高市政権は切羽詰まって維新の会と約束した衆議院議員の定数削減審議を秋の臨時国会に先送りせざるをえなくなる。

本来の国会会期末だった7月17日を控え、同じく維新との約束である副首都構想のために8日の会期を延長した。国民民主から袖にされ、チームみらいを取り込んで辛うじて格好をつけたが、予想どおり国会採決は綱渡りだった。

青森県選出の自民党衆議院議員だった大島理森(79)は、かつて国会対策の大物族議員として野党と渡り合ってきた。大島には高市政権における国会運営がどう映っていたか。まずはそこを聞いた。

「2月に大勝した総選挙の余韻の力とでもいえばいいのでしょうか、高市政権の現状はその勢いが残って成り立っているように感じます。連立した維新との約束にできるだけ早く区切りをつけたい。高市総理の国会運営の進め方には、そんな思いがあるんじゃないでしょうか。

高市総理は来年に自民党総裁としての任期を迎えます。それまでの政治手順を考えるうえの一つのポイントとして、維新との約束を果たす。

報道によればたとえば(党幹事長代行として)政権を支えてきた萩生田光一さんもびっくりしたぐらい、総理は定数削減の問題に前のめりになった。直接伺ったわけではないけれど、高市総理のご性格を勝手に推測すると、そう思います。

いい悪いの議論は別に、連立相手との約束を果たすのは政治家として当然のことと考えているのではないか。維新との約束を片づけたあと、高市政治の体制をきちっとつくりたいのだろうと見ています」

大島は第二次安倍晋三政権下の2015年4月に衆議院議長に選出された。以後2021年10月に議長として衆議院解散の詔書を自ら朗読するまで、議長在職日数は2336日を数える。

戦後生まれ初の衆議院議長であり、なおかつ歴代最長議長となる。衆議院議長退任と同時に政界から身を引いた。ちなみに2位は今年6月に鬼籍に入った河野洋平だ。

その大島は議長の職責を自覚し、官邸一強と謳われた第二次安倍政権時代の議長でありながら、森友学園問題の国会対応について次のような議長談話を発出する。

「(国会議員は)憲法に定められた精神と条文、国会法に基づいて行動していかなければならない」

森友加計問題でのらりくらりと国会答弁を繰り返してきたときの首相に対する箴言に違いない。そんな衆議院議長時代の大島にとって最大の仕事が、天皇の生前退位に関する2017年6月の特例法整備だった。のちに大島は議長会見で語った。

「国民の総意を見つけ出すことが立法府の重大な責務であり、静謐な環境で合意を最も重視した」

周知のように「国民の総意」「静謐な環境」は現高市政権で俎上にのぼっている皇室典範改正でもしばしば使われる。というより、高市政権が至上命題に掲げてきた皇室典範改正それ自体が、9年前の天皇の生前退位から議論が始まっている。だからこそ、この2つの言葉が重大な意味を持つのである。

そしてはからずもこの大島衆議院議長時代だった18年10月から19年9月まで、衆院の議院運営委員長を務めたのが、現首相の高市にほかならない。この間、高市自身は国対運営に疎いと批判されてきた。それもあながち的外れではないようだ。

「高市総理は常に勉強してますから、つい突っ走ってしまうのかもしれません。私が衆議院議長をしているときに議運の委員長に就任され、いきなり国会改革に関するペーパー(高市私案)を出しました。

記憶が定かではありませんが、閣僚の国会への出席を減らすべきだとか、議員立法をもっと増やすべきだとか、その手の話だったようにも思います。

議長のもとには議会制度協議会という諮問機関が置かれ、正式な議運のテーマとして取り上げる前の段階でそこに議題が上がってきます。高市総理のペーパーはその手前だったと記憶しています」

いわゆる高市私案が出されたのは2018年10月の臨時国会開会前のことだ。高市は29日の衆院本会議開催4日前の25日、超党派議連の「『平成のうちに』衆議院改革実現会議」の表敬訪問を受けた。

メンバーの浜田靖一や小泉進次郎らにとつぜん<議院運営委員長として実現を目指す事柄>と題したA4判コピー用紙に印字された3項目に大別された国会改革案を手渡した。

<(1)ペーパーレス化の一層の促進(2)法案審議の方法を改善(3)衆院本会議場への「押しボタン方式」の導入>

と記されている。

それが衆院議長である大島のもとへ届けられ、与野党が騒然となったのである。

問題は(2)の「法案審議の方法」だ。

ここには<国会冒頭の大臣所信に対する質疑日数を増やし、法案審議は続けて行う。会期末前に残った時間は、議員立法の審査や一般質疑に充てる>と記されていた。

閣僚である所管大臣を中心に政府が国会に提出した法案審議を優先しろというものだ。

そのために閣僚を増やすべきだという趣旨も含まれているのかもしれないが、なによりこの政府提出法案を審議する際には、法案と関係のない議論を避けるべきだという。

不祥事の追及は特別委員会を設置しておこなうべきだというもっともらしい意見なのだが、予算委員会などで安倍首相が森友加計スキャンダル対応に追われていた件を想定していたであろう。

とどのつまり、これでは国会における不祥事追及の場がなくなってしまう。そこで野党はいっせいに高市私案に反発したのである。大島が説明を加える。

「国会運営は手続きが重要なんです。だから私は高市総理に『いきなりこんなペーパーを出しても、簡単にテーブルに載せるわけにいかない。きちんと議運のメンバーを説得しなさい』と諭しました。

議運には、過去の国会法に則った慣例があります。激しい権力闘争のなかで生まれてきたルールといえばいいのでしょうか。国会はそのルールをベースに議論しなければなりません」

大島はかなり言葉を選んで慎重に話す。平たくいえば高市は国会のルールを無視していたため、門前払いになったという意味だ。

今度の特別国会の運営を顧みると、首相に就任した高市が議運委員長時代の失敗を肥やしにしているとも思えない。むしろ失敗を繰り返している。

首相が野党の質問にまともに答えず、秘書の陳述書を自らの答弁に代えようとする姿勢などは、まさしくその典型というほかない。人気の宰相は万能感に満ち、数で強引に法案審議を押し通すような姿勢ばかりが目立つ。

維新との約束を果たそうとしてきたのは長期政権を見据えているからなのかもしれないが、高支持率の女性宰相によるあまりに乱暴な国会運営に対し、野党はもとより自民党内にも相当な不満が潜んでいる。

高い内閣支持率のおかげでその不満が顕在化していないだけではないか。そう問うと大島は言った。

「総じていえば、自民党総裁、内閣総理大臣というポジションは、『私が言えば何事でも動く』という思い込みみたいなものが付きまとうように感じます。まさに大勝した余韻が依然として残り、内閣支持率もその要因となるのでしょう。

自民党内ではものを言いたくても言えない。しかし、気をつけなければなりません。たとえば消費税の扱いについていえば、自民党内には税体系の意見を持った税のプロがおられる。支持率が落ちたとき、不満の声が一挙にあがる。

自民党は大人の政党ですから今は控えているけれど、状況が変化すれば、そんな可能性は否定できません」

ここへ来て、さしもの高市人気にも陰りが見え始め、水面下の反高市の動きが顔をのぞかせている。そこは稿を改めるが、自民党を中心とした政界の迷走について、改めて大島に尋ねた。

「一本の蝋燭たれ」――河本敏夫が大島理森に遺した政治哲学

「私は青森の田舎侍で、農業団体のリーダーだった父も地方議員をやってました。叔父が戦後に衆議院議員を6期務めていましたが、私の選挙区の代議士が三木派にいた関係もあって河本派から選挙に出ました。

とくに河本(敏夫)先生にご指導いただきました。まさに先生にお育ていただきました。『投票箱の蓋が閉まるまでが選挙だから、最後まで全力を尽くせ』というのが河本先生の持論で、『政治家は一本の蝋燭たれ』とお話されていました」

大島理森の実父は青森県議会議長を務めた大島勇太郎、衆議院議員だった夏堀源三郎は叔父にあたる。三戸郡上長苗代村(現八戸市尻内町)出身の大島本人は、慶大法学部を卒業後に毎日新聞広告部から青森県議会議員を経て国政に転じた。

中曽根康弘政権下の1983年12月、自民党河本派から総選挙に出馬して当選して以降、11期連続で衆議院の議席を守っている。党人派の元自民党代議士である。政界引退後は東京にも事務所を置き、大相撲の横綱審議委員会委員長として発言してきた。

大島の所属した河本派は、田中角栄の宿敵といわれた三木武夫が旗を掲げ、河本敏夫が三木派の議員をまとめて派閥を引き継いだ。地元の中選挙区時代、河本派の大島に対し、岸派の流れを汲む福田派の田名部匡省と大票田の八戸市を二分する熾烈な「八戸戦争」で知られる。

政治の世界における権力闘争を肝に銘じているのは、党内派閥の力学と自らの政治信条を貫く難しさを肌で感じてきたせいかもしれない。

大島は衆議院議員1回生時代の85年6月、「国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案」が議員立法によって国会に提出されると、そこに異を唱えた。通称、「スパイ防止法案」は、日米安保改正を実現した岸信介政権時代から統一教会やその傘下の国際勝共連合のバックアップもあって法制化を悲願としてきた。

大島たちハト派の自民党議員はそこに危機感を抱いて反対した。スパイ防止法の是非を巡る議論は今なお続いており、のちの個人情報保護法や特定機密保護法、さらには今度の国家情報局設置などの審議もその延長線にあると言っていい。

極端な右傾化を嫌う大島が、師と仰ぐ政治家が河本敏夫である。河本は1911年6月兵庫県赤穂郡相生村(現:相生市)に生まれた。

衆議院議員を連続17期務め、沖縄開発庁長官や経済企画庁長官、通産大臣や郵政大臣を歴任した重鎮であり、終戦後の自民党で総裁の座を争ってきた「三角大福中」に次ぐ党の実力者であった。

政界入りする前には海運大手「三光汽船」のオーナー社長という顔を持ち、河本は自ら所属する三木派の政治資金を支えてきたといわれる。河本に心酔してきた大島は今も都内にあるオフィスに河本の写真を飾っている。

「河本先生は自由主義者で、出身校の旧制姫路高校時代に反戦論をぶってクビになった逸話も残っています。そのためにずい分苦労された。様々な仕事をしながら、ある議員先生のところに寄宿して日大(法文学部)に入ったといいます。

その大学時代に義理のお兄さんと三光汽船を創業したのですが、三井にしろ、三菱にしろ、もともと大手の船舶会社はときの権力と強く結びついていました。けれど三光汽船は違います。河本先生の根底には、一種の反権力的な自由競争経済が基本だという思いがありました」

その三光汽船は第二次石油ショック後の海運不況により1985年7月、会社更生法の適用を申請し、戦後最大の倒産と騒がれた。大島が在りし日の恩師の姿を思い起こす。

「河本先生は三光汽船倒産のときも弁解がましいことなどいっさい言わず、『関係者に迷惑をかけた』と言って沖縄開発庁長官をスパッとやめ、責任をとりました。立派な政界のリーダーはみなそうですが、言い訳を聞いたことがない。そういう方でした。

だから保守本流とは少し距離を置いてきたのでしょう。私は直接その場面にいたことはありませんけれど、自民党は(1978年12月に誕生した)大平正芳内閣で、田中・大平対福田・三木で分裂した。そのとき新党結成の話が持ちあがったそうです。

で、大平先生が『河本さんだけは自民党に残ってほしい』とおっしゃったとか、田中角栄先生から『河本は自由経済のなかで生きた男だから経済がわかる』と引き止められたとか、いろいろなエピソードを教えてくれる人もいました」

田中角栄が1976年に浮上したロッキード事件に塗れ、田中を追及してきた三木武夫が後継首相に座る。このとき自民党内では、相変わらず闇将軍と恐れられて最大派閥を率いた田中角栄と親米派のタカ派路線を進んだ福田赳夫の派閥の対立が表面化した。

田中政権時代、外相として日中国交回復を成し遂げ、田中派のバックアップを得て首相に就いた大平はとうぜん田中に与し、ロッキード事件を追及してきた三木は反田中陣営の福田派に味方したとされる。

そもそも河本と三木とは、三木の娘婿の兄弟と河本の娘が結婚していた遠縁関係にあり、三光汽船のオーナーである河本は三木派のスポンサーと呼ばれてきた。それだけに田中や大平は河本を援軍につけようと、誘いをかけたのかもしれない。

一方で、福田陣営には中曽根康弘や中川一郎などが合流し、三木派を引き入れて新党を結成する動きまで見せたというのである。だが、結局のところ河本が動かずに新党話は立ち消えになった。

自民党内が文字どおり真っ二つに割れそうになったその1980年代からおよそ10年のときを経て、本格的な政界再編劇の幕があく。対外的には日米が貿易収支を巡る経済摩擦で揉め、米ソの東西冷戦が終わった。日本国内では90年代に入ってバブル経済が崩壊する。と同時に、政治の世界も変化を大きな迫られた。大島がそんな時代を読み解く。

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