エコフェミニズムと本質主義
性差を「自然」や「生物学」に還元し、女性を生殖機能によって定義する本質主義的な議論は、右派だけでなく、一部の左派的エコロジーにも入り込みうる。エコフェミニズムの実践は、しばしば、自然化された「女性的」な領域――「環境ケア」「日常生活の小さな行動」、脱成長的な質素さ――へと押し込められてきた。
さらに、エコフェミニズムは、社会的・歴史的文脈を無視した先住民文化の盗用や、寄せ集めのスピリチュアリティへと接続される傾向もある。しかし、「女性は自然に近い存在である」という発想は、女性を身体・母性・土地・共同体へと結びつける点で、反動的な極右の世界観と相性がよい。 この点は、日本の1980年代のエコフェミニズムをめぐる青木・上野論争において、上野千鶴子がすでに指摘していた通りである。「男性原理」が優越してきた近代社会の行き詰まりを「女性原理」によって打開しようとする青木やよひのエコフェミニズムを批判する上野の言葉を、以下に引用しよう。
「エコロジスムは、数ある近代批判のうちの一つにすぎない。「近代=西欧」が支配し統制しようとした「自然」に、近代が復讐されているとして、「自然への回帰」が近代を超克する唯一の道だとするのは、「自然」の一種の神秘化に他ならない。しかも、「女性」がこの「自然」を代表するとしたら、それは文化/自然の二項対立の図式のうち、自然の側に女性を割り当てる男性優位の文化イデオロギーを実は前提とし、受け容れていると言える。このイデオロギー的なジェンダーの配当こそが問われなければならないところなのに、自ら進んで「自然」を引き受け、それを代表するのは、男性文化の策略にはまることであろう。」
上野千鶴子『女は世界を救えるか』勁草書房 、Kindle版 (p. 155)
上野はエコフェミニズムが女性=自然を本質化することで、支配的な権力関係を再生産してしまうことを批判している。
もちろん、エコフェミニズムの中には、本質主義に依拠することなく、あくまで女性が置かれている社会的位置や担わされている役割を起点に、環境破壊を生む権力構造を批判する潮流も存在する。
具体的には、土地をめぐる脱植民地的闘争、環境レイシズムへの抵抗、軍事産業や戦争への反対運動などが挙げられるだろう。しかし、そこに性差と「自然」を結びつけ、女性性を生殖機能に還元するような本質主義的な議論が滑り込んでしまうと、「自然を守ろう」という主張が女性、身体、性差、家族のあり方を固定する思想へと変わってしまうのである。
フランスで反同性婚運動を機に「保守女性運動」が活性化したが、それ以降、この運動の一部の潮流が、自然主義・エコロジー志向を強めていることは注目に値する。
これは同じ時期の2015年に、教皇フランシスコが発表した回勅によって、社会・環境・経済・世代・日常生活・文化を結びつける「統合的エコロジー」が世界的に広まったことも関係している。
こうしてカトリック思想とエコロジー、保守女性運動が結びついたことで、「自然や身体、性差を尊重する」という名の下で避妊や中絶、生殖医療に対して批判的な保守エコフェミニズム思想が生まれているのである。
極右エコロジーと気候変動懐疑主義は両立する
ここまで読んだ人は、こんな疑問をもつかもしれない。これほど体系化された極右エコロジー思想があるのに、なぜ極右の主流は相変わらず気候変動懐疑主義にとどまっているのだろうか?
実は、極右がエコロジーを語りながらも、同時に気候変動懐疑的な態度をとることは、一見矛盾するが、両立可能である。なぜなら、極右的エコロジーは、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の科学的知見に基づいて、パリ協定のような国際的な気候政策を実現しようとするものではないからである。
むしろそれは、エコロジーに結びついた想像力を、人種主義的、反動的、閉鎖的な政治プロジェクトを正当化するために利用する。よって、極右の政治家が「IPCCは誇張している」と述べ、科学者の発言を信用できないものとして扱うことと、自然、土地、国民、景観を守るというエコロジー風の言説を使うことは、同じ目的のなかで共存できるのだ。極右は、科学的な気候対策には反発しつつも、自然や土地を守るという言葉だけを自分たちの政治に都合よく取り込むのである。
また、極右は複数の支持層を集めるために、異なるエコロジー言説を使い分けている。権力を取ろうとする政党は、さまざまな社会階層や職種から支持を集めなければならない。
そのため、特定の保守的知識人層に向けては、「土地への回帰」「村落共同体」「短い流通回路」といったレトリックを使うことがある。
しかし、このようなエコロジー的・共同体的な語りだけでは、選挙に勝つほどの広い支持基盤をつくることはできない。だからこそ極右は、エコロジー思想を掲げてみせたとしても、グリホサート系除草剤などの農薬、石油、自動車を正面から批判することはしない。
そうでなければ、フランス農業の大規模化・高生産性・競争力強化を求める農業経営者組合や、エコロジストに強く反発する平均的な極右有権者の支持を得られないからだ。だから彼らの「エコロジー風」の言説と、実際の議会投票や産業寄りの立場とのあいだには矛盾がある。
しかしそれは、単純な思想的矛盾というより、支持層ごとに語りを使い分ける選挙戦略なのである。 議会内の極右は、産業界や化石燃料産業の利害に支えられたカーボファシズム的傾向をもつ。
他方で、議会外の極右には、農村へ移住し、民族的に同質的で、家父長的な自給的共同体を作ろうとするエコファシズム的な実践もある。この2つは、必ずしも対立するものではなく、むしろ補完関係にあると捉えるべきだ。カーボファシズム的な極右勢力が、政党政治の中心では化石燃料産業や既存の消費生活を守りながら、周辺でエコファシズム的な小共同体の形成を容認したり、促進したりすることは十分にありうるのである。

