『オトナ帝国』では「親世代」だった昭和は、今や「祖父世代」となった
一方で、本作には『映画クレヨンしんちゃん』のファンが感慨深くなる新基軸もある。それは、しんのすけの父方の祖父である「野原銀の介」にスポットライトが当たっていることと、その幼少期が描かれていることだ。
その銀の介の子ども時代の出来事と友達との交流は、とてもささやかでほほまえしい。それらがメインプロットというほどではなく、回想としてごく短く示されているのも、むしろ好ましい。必要最低限の描写かつ、セリフに頼りすぎない演出で示していることがスマートだ。
また、銀の介の子ども時代の光景は、『オトナ帝国』におけるひろしの子ども時代と重なるところがある。2001年の『オトナ帝国』では、「昭和」は「親世代」の時代だったのが、四半世紀が過ぎた今では「祖父世代」の時代になったのだと、現実の時の流れを感じるのだ。さらに、最終盤のしんのすけの奮闘や、ひろしやみさえのリアクションなども、はっきりと『オトナ帝国』の「余波」を感じるものだった。
とはいえ、画や設定ではしっかり『オトナ帝国』との差別化はできている。例えば、劇場パンフレット掲載の渡辺正樹監督のインタビューによると、「60年前に人間界と妖怪の世界は交流を閉ざしてしまった」ことから連想して、「妖怪の世界は60年前の日本の面影が比較的残っている感じ」かつ「城下町は完全に昭和の日本という感じだけではなく、江戸時代の雰囲気と西洋の建物なども少し取り入れている」という塩梅の設定にしているのだ。
他にも劇場版パンフレットでは、美術監督たちによるこだわりがたっぷりと語られており、今の秋田と昔の秋田を対比した美術の他、妖怪のお城の一部は建築家のアントニ・ガウディの仕事がモチーフになっていることも記されている。『オトナ帝国』『もののけニンジャ珍風伝』『千と千尋』『平成狸合戦』に似ているところはあれど、しっかりした独自の美術が構築されているのは、確かな評価点だろう。
無難、しかし感じる“詰めの甘さ”
さらに、物語は理路整然と作られているし、ちゃんとした伏線回収もしているし、盛り上がりどころもある……と評価をしたいのだが、やや詰めの甘さを感じるところもある。
例えば、妖怪になったひろしとみさえを人間の姿に戻すまでのタイムリミットが設定されているのだが、それに関連した展開の説得力に欠けている。作り手も「時間がないのにのんびりしすぎでは?」という問題はわかっているようで、妖怪たちと野球対決をする時に、やたらとその言い訳をしてしまっていたりもする。
他にも、敵キャラの「つちこ」に「電流が効かない」からこそ工夫して倒す展開は、なまじ理屈を付け加えているぶん、むしろ説得力を失ってしまっているのではないか。ラスボスの倒し方も、クレヨンしんちゃんの「おバカ」な印象を先行してしまったためか、やや強引さを感じてしまった。
さらに、『映画クレヨンしんちゃん』でかなり重要とも言えるおバカなギャグも、今回は全体的にスベっている印象が否めない。つちこが口癖で「つっちり」と何度も言うのは何も面白くないし、準レギュラーキャラが妖怪化した姿の名前は、おおむねストレートすぎてひねりがない。「ひろしの靴下の悪臭」は劇場版で散々擦り倒されたネタで今回も面白くはあるのだが、もはやお約束を超えて「アリバイ」的に入れているように思えてしまうのだ。
だが、子ども時代の銀の介が秋田名物の「いぶりがっこ」にかこつけて「いぶりぶりぶりぶりがっこ」の芸をするのは面白かった。また、今回のゲストキャラクターの「やこ」がクールでカッコよく、しんのすけだけでなく、銀の介というおふざけが大好きなキャラと好対照になっているのも確かな美点だ。

