
イギリスのロンドン自然史博物館(NHM)などの国際研究チームによって、アザラシが水中で音を聞くとき、耳の中を血液で満たしていることが、有力な裏づけとともに示されました。
研究ではアザラシの耳の中には人間のペニスにあるような海綿状組織があり、水中に潜るとそこに血液が流れ込んで膨らみ、水中の音波を鼓膜に中継する役割を果たしていた可能性が多方面からの分析により示されています。
筆頭著者のルール博士は「空気中や水中でどのように音を聞き取っているのかは、何十年ものあいだ謎のままでした」と語っています。
しかし奇妙なのは、この血を満たした「音の通り道」が、そもそも音を聞くために備わった器官ではなかったという点です。
では、いったい何のための器官だったのでしょうか。
研究内容の詳細は2026年7月15日に『Proceedings of the Royal Society B』にて発表されました。
目次
- アザラシの仲間だけが水陸両用の耳を持っている
- アザラシは耳の中の「海綿体」を膨張させて水中音を聞く
- 水陸両用の耳は2670万年前にうまれた
アザラシの仲間だけが水陸両用の耳を持っている

プールに潜っているとき、水面の上から呼びかけられて、何を言っているのかさっぱりわからなかった経験はないでしょうか。
あれは、水が音を通さないからではありません。むしろ水は、空気よりも音をよく伝えます。問題は、水の中にいるあなたの耳のほうにあります。
私たちの耳は、空気の震えを鼓膜で受け止め、それを奥へ送り届けることで音を聞いています。
陸の上なら、この空気の部屋がうまく働きます。空気の震えを、空気が受け継ぐ。同じ素材どうしなので、受け渡しはなめらかです。
ところが水の中では、この空気の部分が壁に変わります。
音は、水と空気の境目を通り抜けるのが、極端に苦手なのです。
たとえば海水と空気のあいだでは、音の99.9パーセントがはね返されてしまうことが知られています。
水中の音にとって、耳の中の空気は、ほとんど鏡なのです。
クジラは、この問題を力業で解決し、耳を水中専用に作り替えてしまったのです。ただその代償として、彼らは空気中で音を聞くことが、ひどく苦手になりました。
陸の音と海の音を、どちらもはっきり聞く。それは物理の側が簡単には許してくれない、無理のある注文です。
ところがアザラシの仲間は、その無理を通しています。
彼らは繁殖のために陸へ上がり、餌を獲るために海へ潜ります。
片方に賭けて、もう片方を捨てるという選択肢がありません。
そして実際に、両方でしっかり聞こえています。水中で音がどちらから来たのかを正確に言い当てることができますし、ざわついた音の中から必要な声だけを拾い出すこともできます。
哺乳類でこれができるのは、彼らだけです。
では、どうやってアザラシたちは水陸両用の耳を機能させているのでしょうか?
長らく有力視されていた説は骨伝導です。
鼓膜を通さずに、頭の骨や肉を伝わって、音の震えが直接奥まで届くルートのことです。録音した自分の声を聞いて違和感を覚えるのは、ふだん自分の声を骨伝導込みで聞いているからだと言われます。
耳の入口に鏡があって音が入れないのなら、鏡を迂回して、頭から直接届いているのだろう。筋の通った、わかりやすい説明でした。
ただ、この説明には2つの大きな穴が開いていました。
まず、音が弱くなりすぎます。
骨伝導で水中の音を受け取ろうとすると、信号はおよそ30デシベル分そぎ落とされてしまうことがわかっています。
デシベルは「元の何倍になったか」を表すための、いわば倍率のものさしで、音の強さ(エネルギー)で言えば、10進むごとに10倍になります。
ですから、10デシベル弱まれば10分の1。20デシベルなら100分の1。そして30デシベル弱まるというのは、エネルギーが1000分の1になるということです。
厚い壁を一枚はさんで、隣の部屋の会話を聞いているようなものです。誰かがしゃべっているらしいことはわかっても、何を言っているのかまでは届きません。
ところが実際のアザラシは、水中で音の細部まで聞き分けています。
壁越しにぼんやり届く音だけでは、その鋭さの説明がつきません。
それにもし骨伝導で十分なら、人間でもイヌでも同じように水中の音が聞こえるはずですが、実際にはそうではありません。
さらに骨伝導は、頭全体で音を受け取る仕組みです。
頭がまるごと震えるため、音がどちらから来たのかを判断する手がかりが弱くなります。
ですが実際のアザラシは、水中で音の方向をかなり正確に特定できます。
つまり骨伝導だけでは、アザラシの水陸両用の耳を説明しきれずにいたのです。
アザラシは耳の中の「海綿体」を膨張させて水中音を聞く

アザラシの耳の穴と中耳の内側には、私たちの耳にはない構造があります。
血管がぎっしり詰まっていて、血液を送り込むと風船のように膨らむ海綿状組織と呼ばれるものです。
ヒトのペニスの海綿体と同じく、血液をためてふくらむ仕組みが耳の中にあるわけです。
面白いことに、耳の中にこの構造を見つけ、名前をつけたのは1899年のことでした。
そして1960年代から70年代にかけて、「この血で満たされた組織こそが、音の通り道なのではないか」という仮説も提出されていました。
人間は耳の中にある空気の層のせいで水中の音が上手く聞こえませんが、アザラシは水に潜ると、その空気の部分が血液で満たされた海綿状組織でふさがれ、水中の音波を海綿状組織の中の血液を介して、効率よく鼓膜に伝えられるという考えです。
ところが、この仮説は長らく顧みられることはありませんでした。
今回の論文の表現を借りれば「わずかな関心しか払われてこなかった」のです。
理由は、確かめる手立てがなかったことにあります。
この仮説をきちんと検証しようとすると柔らかい組織を壊さずに、耳の内部をまるごと覗く必要があります。
潜っている最中のアザラシの耳を覗ければ手っ取り早い、と思うかもしれません。
しかし、たとえ組織が膨らむ様子をとらえられたとしても、わかるのは「膨らんだ」という事実だけです。
その組織を通って音が届いているのか。それとも音は別のルートで届いていて、組織はただ耳を守っているだけなのか眺めているだけでは、区別がつきません。
実験動物であれば、耳の部分を切り開いて、疑わしい部分を切り取ったり塞いだりして、聞こえなくなっているかを確かめるという手段がとれます。
しかしアザラシの多くは保護の対象となっているため、実験のために聴覚器官のパーツを取り除いていくという方法はとれません。
しかも組織が膨らむのは、深く潜っている真っ最中です。その状況を再現すること自体が、そもそも簡単ではありません。
その状況を変えたのは、博物館の収蔵庫に眠っていたものでした。

タスマニア博物館・美術館の収蔵庫には、オーストラリアオットセイ、ヒョウアザラシ、ミナミゾウアザラシという3個体の頭部が軟らかい組織ごと液に浸けて保存されていました。
研究者たちはこれを、医療用のCTにかけました。
結果、海綿状組織が耳の穴の内側から中耳の空間まで、内壁をびっしり裏打ちするように広がっていることがわかりました。
さらに音を伝える小さな骨たちは、この組織の中に上から吊り下げられるような格好で収まっていることも確認できました。
つまりこの組織は、耳の中にちょこんと置かれた部品ではありませんでした。音の通り道そのものを、内側から包み込んでいたのです。
さらに研究者たちは、海水から血液へ音が入るときに何が起きるかを計算しました。
するとはね返されるのは1パーセントにも届かず、99パーセント以上がそのまま通り抜けるという計算になりました。
もし海綿状組織の内部が血でいっぱいになっていれば、海水の音波を鼓膜に届けるための音の通り道として機能できたはずです。
とはいえ、ここまでは「そうなるはずだ」という話にすぎません。
そこでチームは、ひとつ古い論文を引っぱり出してきました。
1975年のことです。
研究者たちは、タテゴトアザラシの頭部に水中で音を当て、どこがいちばん強く反応するかを調べていました。頭のあちこちに音をぶつけては、反応を記録していく。ひたすら地道な作業です。
結果、最も敏感だったのは、耳の穴の開口部のすぐ下、頭の側面という場所でした。
耳の穴そのものではありません。その少し下の、外から見ればただの皮膚と肉にすぎない場所です。
ただ当時はなぜそこなのか、不明のままでした。
しかし今回、CTで浮かび上がった海綿状組織の走行ラインは、まさにその「敏感な場所」と重なっていたのです。
血液の性質から導かれた理屈が、「音はここを通るはずだ」と言う。
タテゴトアザラシで取られた50年前のデータが、「ここが敏感だ」と言う。
そしてCT画像が、「ここに組織がある」と言う。
三つは、それぞれ別の時代に、別の方法で、別の目的のもとに得られたものですが、どれも海綿状組織が水陸両用の耳の鍵であるという仮説を、互いに補強していました。

