清水弘士さんの言葉と思いを伝承する
広島市の研修では、被爆の実相、核兵器を巡る世界情勢、広島の歴史、戦時下の暮らしについての講義を受けた。その最後に、9人の被爆者の証言を聞く時間が設けられていた。証言を聞いた上で、どの方の被爆体験を伝承したいかという希望を出し、決まれば次の1年間は一人の被爆者から学ぶ研修期間となる。
証言を聞く中でとりわけ感銘を受けたのは、清水弘士さんの話だった。
清水さんは1942年生まれ。原爆投下の時は3歳で、広島市の爆心地から1.6キロの地点にある、吉島町という場所で暮らしていた。両親と10歳上の兄の4人家族だった。長峰さんを含む、その日の50人ほどの受講者に清水さんは言った。
「被爆体験の伝承というのは、8月6日の体験を語るだけではありません」
清水さんは、1時間の話の中で、核兵器が一生、人を苦しめることや戦争の背景についても詳しく話してくれたという。
長峰「清水さんは『日本が侵略によって戦争を始めたことや、広島が軍都だったこと、その歴史を忘れてはいけない』と言いました。『国はどうやって国民を戦争に巻き込んでいったのか、大人たちはなぜ戦争に反対できなかったのか。歴史を知って学んでください。』と。
そして『同じことが繰り返されようとしていないか、今の世の中を見極める目を持って伝えてください。戦争で犠牲になるのはあなたたちなのですから』と。
自分の味わった苦しみを、次の世代には味わわせたくないという強い思い。普通の市民や弱い立場の人を巻き込んでいった戦争、権力者への怒りが根底に流れているお話に深く感銘を受けて、ぜひ清水さんの伝承をしたいと熱望し、結果的に受け入れてもらいました」
講和で必ず伝える「空白の10年」
こうして清水弘士さんの体験と思いを中心に、独自の原稿を書き、スライドを用意して、2024年から伝承活動をするようになった長峰さん。
「子どもの頃から周りの人たちが戦争の話をしてくれて、広島で清水さんに出会い、戦争によってもたらされた核兵器の本当の恐ろしさを深く学ばせてもらった。振り返るとまるで、全部繋がっている一本の道のように感じています」
そう話す長峰さんの講話は、胸に迫る言葉で満ちている。
中でも長峰さんが必ず伝えるのは、清水さんがぜひ知ってほしいと切望し、自身の証言でも語っていた「空白の10年」についてだ。
空白の10年とは、広島と長崎の被爆者が行政から支援もなく、お金がないために病院にも行けず、差別と偏見に苦しんだ時間を指す。
原因は戦後日本を占領したGHQが1945年に「プレス・コード」という規則をつくり、報道や出版を取り締まったことにある。新聞や出版物が検閲され、原爆の悲惨さ、放射線の後遺症などの事実が隠蔽され、原爆被害によって苦しむ被爆者は存在しないことにされてしまった。
日本政府も、被災した人に治療や食事を無料で支給する法律を規定通り2か月で打ち切った。広島に53か所あった救護所は全て閉鎖、被爆者は治療や生活の支援を受ける道を閉ざされてしまった。
原爆の詳しい情報がない中、被爆者は差別や偏見に苦しんだのだ。原爆投下から7年後の1952年、日本がサンフランシスコ平和条約によって占領状態から独立すると、「プレス・コード」も廃止される。
そして1954年、ビキニ環礁でのアメリカの核実験によって第五福竜丸などが被爆し、初めて日本の人々が核兵器の被害を実感することになる。
その後、のちにノーベル平和賞を受賞することになる日本被団協が結成され、1957年には原爆医療法の実現により、国の費用で被爆者の治療と健康診断が行われるようになった。
原爆投下から12年もの間、公的支援を受けられなかった清水さんは、被爆で亡くなったお父さんに代わって闇市で生活を支えたお母さん、お兄さんと共に、原爆症と貧困に苦しみながらも、なんとか生き延びたという。
空白の10年は、国の指導者が戦争を形式上終わらせても、被害者にとっての戦争は終わらないことを示している。清水さんは「あの悲惨な歴史を二度と繰り返さないように、未来への教訓を伝えることが最後の仕事だ」と言っていたという。

