「嘘が許されない」研究とドキュメンタリーは似ている
岩井 フィクションの書き手である僕は、「事実の重み」に対して、超えられない壁みたいなものをずっと感じています。もちろん、ドキュメンタリーにも監督、あるいは編集の意図や視点は当然入っている。なんだけど、撮れている映像自体は事実です、というベースがある。ものすごく強い武器だと思うんです。
山崎 隣の芝生は青く見えるのかもしれませんね。事実の強さはあると思いますが、同時にこれほど難しい、責任の重いことはないと思っていて……。さきほど「実景」が撮れていると褒めてくださいましたが、悔しいことのほうが多いんです。私は目撃したけど、ちょうどカメラマンが隣の教室にいたから撮れなかった場面とか、起承転結の、「起承転」までは撮れたのに「結」がないから使えなかった映像とか、取材者との関係性で世に出せなかったこと……そういうことばかりを思い出します。だから野球だと、3割打つとすごいバッターですが、ドキュメンタリーは1割いけばいいかな、くらい。難しいことをやるから魅力があるとは感じていますが。
岩井 そうなんでしょうね。だからこそ、今回僕が書いた小説のラストのような展開が起こりうると考えたんです。僕は理系で大学院でバイオの研究をし、メーカーに研究職として就職しました。研究畑を長く歩んだ人間として思うのは、ドキュメンタリーと研究の世界は似ている。事実を積み重ねて、編集して、世に出すという点でよく似ているんです。で、研究をしていると、悪魔がささやく瞬間があるんですよ。「数字変えちゃえよ」と。そんなことをしたら大きな代償を払うことはわかっているんですが、抗えない人もいるだろうなと。それはどんな人だろう……と、今回の小説では考えていったわけです。
山崎 主人公の三田がやったことについて、自分だったらどうするだろうと考えましたし、この本を読みながら、高校生のときに見たアメリカのドキュメンタリー映画を思い出しました。『My Kid Could Paint That』という作品で、私はすごく影響を受けています。
4歳の子供が描いた絵が高額で売れるようになり、天才画家として全米で有名になるんです。監督は彼女と、彼女を支える家族のドキュメンタリーを撮り始めるんですが、撮影の途中で、実は親が描いてるんじゃないかという疑惑が持ち上がる。そこからドキュメンタリーの方向性がどんどん変わっていって……と、細部は記憶が曖昧なので興味のある方にはぜひ観ていただきたいのですが、つまりドキュメンタリーってシンプルなものではない。岩井さんのこの本もそうですが、素敵な人だな、世に広めたいな、というポジティブな理由で撮り始めた人を、知れば知るほど予期しない側面が見えてくることは当然あるし、知ったことや撮ったことを全部世に出すわけでもない。そういった過程が『My Kid Could Paint That』はあらわになっている映画で、久しぶりに見返してみたいと思いました。
岩井 すごい作品ですね。撮れてしまった、ということなんでしょうね。真実と思われているものの裏側には僕もすごく興味があって、やはりドキュメンタリーは面白いし、研究と似ているなと。嘘が許されない二大巨頭だなと。
山崎 でもどうでしょう。森達也さんが『ドキュメンタリーは嘘をつく』という本を書いているように、何が嘘で何が本当かは奥深くて、議論の余地があると思います。
編集された発言が巻き起こした、「ドキュメンタリーとは何か」論争
山崎 一方でドキュメンタリーは、「事実を描いている」という信頼の上に見られ続けないと危ないジャンルだとも思っています。10年ほど前にアメリカでは、ドキュメンタリーとは何か、という議論が起きました。きっかけになったのは『ザ・ジンクス(The Jinx)』というテレビシリーズで、殺人の容疑がかかった大富豪をインタビューで追い詰めていくんですが、ある時、彼がトイレで、殺人をほのめかすような発言をぽろっとするんです。ピンマイクを外し忘れていたことで、偶然撮れてしまった発言だった。
ドキュメンタリーのラストにその発言が使われたので、見た人は当然、彼はクロだと思うし、実際に逮捕・起訴される。しかし裁判で、トイレの発言が編集されていたことが明らかになります。発言の意図は変えていないと制作側は主張しましたが、大きな議論になった。そんな事件がありまして、ドキュメンタリーの信頼が薄れることはよくないと私は思ったりしました。
ただ、日本は事実やリアルに囚われすぎているようにも感じます。それはピュアで素敵な考え方ですが、日本でドキュメンタリーの幅が広がらない理由なのかなとも思うんです。
岩井 なるほど。そもそもアメリカではドキュメンタリーがすごく盛り上がっているんですね。
山崎 ネットフリックスをはじめとする配信が黄金期を作りました。私がニューヨーク大学を出て、仕事を始めた頃がピークで、ドキュメンタリーをやっていると言うと「クール!」と必ず言われて。ハリウッド映画と同じくらいドキュメンタリーは身近なもので、シリアスな作品からエンタメのような作品まであるし、リアリティーショーやフェイクドキュメンタリーが流行ったことで、フィクションとノンフィクションの境界が曖昧になってもいます。最近はピークを越えて、業界がちょっと困難になってきていますね。
岩井 そうした多様なドキュメンタリーを、アメリカの人はどう受け止めているのでしょうか。事実に対しては、日本より鈍感だったりしますか?
山崎 基本的に「作られたものである」という認識が、ドキュメンタリーに対してもありますね。切り取られているし、カメラが回っているし、ピンマイクもついているし、何らかの合意のもとで作られたものであると。しかし、そこに本物や事実のエッセンスがあるからドキュメンタリーでありノンフィクションである、という理解で見ている視聴者が多いと思います。

