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三島由紀夫ゆかりのホテルで執筆断念…10万部ヒット作を生んだ“奇妙な因縁”【怪人/快人伝 第3回】

三島由紀夫ゆかりのホテルで執筆断念…10万部ヒット作を生んだ“奇妙な因縁”【怪人/快人伝 第3回】

三島由紀夫(C)週刊実話WEB

永田町取材歴50年超の政治評論家・小林吉弥氏が実際に会った傑物たちの知られざる素顔を初公開。今回は三島由紀夫(下)をお届けする。

現場から届いた“生々しい情報”

週刊誌記者だった私は、当時、新宿区神楽坂にあった週刊T誌の編集部社屋の近くの、夜通しの入稿作業や仮眠が取れる2階建ての寮のような別棟に籠もり、「三島事件」の入稿作業にあたっていた。

事件があった市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部は、そこから早足で歩けば10分ほどで、現場に出向いている若手記者からはテレビで報じない三島由紀夫の自決の詳細など、生々しい情報が次々に入ってきた。私はそれらをなんとかまとめあげ、2泊のカンヅメで記事として完成させた思い出がある。

思い出のもう一つは私らの籠もっていた部屋の隣に、当時、宇能鴻一郎、富島健夫と共に「失神ご三家」として売れっ子だった小説家の川上宗薫がいたことである。若い頃の川上は純文学作家として芥川賞候補じつに5回という記録の持ち主であったが、やがて性愛小説に転じて人気作家になっている。どうやら川上は、週刊T誌に連載していた小説の執筆でカンヅメになっていたと思われた。

2泊のカンヅメ生活を送った私は、夕方になると川上がタクシーを呼び、夜の帳に消えているのを目撃した。1日目はスーツ姿だったが、2日目はゾロリとした和服姿であった。

「先生は、銀座か六本木あたりへお出ましでしょう。毎度のホステス探求、羨ましいなぁ」と、三島事件の取材でクタクタになった若手記者が言った。私も半ば同感であったが、事件の渦中にあった三島と川上の小説家としての“生き方”の違いが、妙に頭を交錯したのを覚えている。

【関連】「時間を守れない人間は信用されない」三島由紀夫が25歳の記者に刻んだ人生訓【怪人/快人伝 第1回】

昭和44年5月3日、東大全共闘が主催した討論集会に出席した三島由紀夫

三島由紀夫が残した静かな重圧

そうした三島事件の取材に直面したのちの17年後、私は三島と奇妙にして、なんとも偶然の“出会い”をするのである。

時に、私は文藝春秋の出版編集部のA氏から、元国際興業社主・小佐野賢治の人生と商法について執筆依頼を受け、靖国神社のすぐそば、千代田区九段下にあったホテル・グランドパレスにカンヅメになった。A氏いわく「ホテルに1室取るから10日間で書き上げてくれ」というものであった。

案内されたガランとしたその部屋の隅には、何の変哲もない木製の机が置かれており、A氏はこう続けたのである。

「この部屋は三島由紀夫さんがよく籠もって執筆していたところです。小林サンも、がんばってください」

そう言われて、いささか足が竦んだ。かつてインタビューの時間に遅れて気分を害させ、その後、三島事件というショックにも直面したあの“大三島〟である。彼がこの木製の机で、知的にして饒舌、しかし寸分の隙もない文章と闘っていたのを想起すると、畏縮してとても落ち着いて原稿など書けるワケがなかったのである。

折から、大島の三原山が爆発し、テレビは連日その模様を流していたことから、そっちのほうにも気を取られ、結局、1週間で原稿用紙3枚ほど書き上げたところでギブアップした。書く気がまったく起こらず、夜ごとホテルを抜け出しては、川上宗薫よろしく、近くの四谷荒木町の飲み屋に出向いていたのである。

編集部のA氏には、「あと1週間ください。私の事務所に戻って、ぶっ倒れても書き上げますから」と懇願し、ホテルを引き揚げさせてもらった。

結局、A氏には約束よりさらに1週間近く遅れたものの、なんとか書き上げることができた。発売後の結果はよく、10万部近くのヒット作となり、なんとか面目を施すことができた。かく、三島とは、私なりに因縁めいたものを感じているのである。

配信元: 週刊実話WEB

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