名投手の証しとされる「200勝」。400勝の金田正一、350勝の米田哲也と多くの達成者が生まれた昭和と異なり、平成以降の達成者は日米通算を含めても数えるほどしかいない。そしてついに今、NPBのマウンドに「200勝投手」が一人もいなくなった。
NPB通算200勝の最新達成者は山本昌(中日)だが、遥か遠い2008年8月4日のこと。42歳11カ月、524試合目での達成となった。
果たして今後「200勝投手」は出現するのか、また、出現するとすれば誰なのか――その答えに迫った。
◆なぜ200勝投手は消えたのか
答えを探る前に、近年この記録がいかに困難になったかを押さえておく必要がある。
現代では200勝を達成するには最多勝に近い15勝を14シーズンも続けなければならない計算になる。かなり厳しい条件だ。これが昭和の大投手たちとの最大の違いである。
理由は三つある。
第一が分業制の確立だ。完投や連投こそが美徳とされた昭和時代、エースと呼ばれる先発投手は救援も含めて年間50試合近く登板し、シーズン20勝は珍しい数字ではなかった。潮目が変わったのが1980年代とされる。セーブが’74年に公式記録に採用されると、80年代には抑え投手の役割が確立し、リリーフ投手の分業化が進んでいった。
第二がローテーションの定着だ。トレーニング方法の発達で、投手の平均球速は年々上昇する。故障リスクを減らす観点からも90年代以降は中6日の登板間隔が定着。先発投手の年間登板数は25試合ほどで、勝ち星は挙げにくくなった。
第三がMLBへの人材流出だ。1995年に野茂英雄が近鉄からドジャースに移籍して以降、各球団のエース級の投手の多くが全盛期にMLBに移籍するようになった。
このためNPBのキャリアは100勝前後で中断することが増え、NPB単独での200勝はさらに難しくなっている。
加えて価値観の変容もある。統計学的見地から選手の能力を評価する「セイバーメトリクス」の普及も影響を与える。運に左右される勝ち星にはこだわらないという考え方が広まり、それよりも6回3失点で先発の役割を果たすという意識の投手が増えてきた。
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◆「神様、仏様、稲尾様」という呪縛
ここで名前を挙げたい投手がいる。稲尾和久だ。
昭和30年代のパ・リーグを代表する本格派投手。大下弘・中西太・豊田泰光らとともに西鉄ライオンズの3年連続日本一を成し遂げるなど、「野武士軍団」と呼ばれた西鉄黄金時代の中心選手として活躍した。
連投・多投の中で好成績を挙げたことから「鉄腕」の異名で呼ばれ、特に1958年の日本シリーズではチームが3連敗した後で4連投4連勝して日本一を達成し、「神様、仏様、稲尾様」と賞賛された。
その稲尾が1961年に打ち立てた記録が、今なお球界を震撼させ続けている。1961年、稲尾はシーズン当時のパ・リーグ記録となる78試合登板、404投球回で、ヴィクトル・スタルヒンに並ぶNPBタイとなるシーズン42勝を記録した。ほかに防御率1.69、奪三振353もリーグトップで、投手四冠を達成している。
78試合登板、404投球回で42勝──。現代の感覚からすれば、もはや人間の記録ではない。西鉄の勝利数は81であり、稲尾和久はチームの半数以上をひとりで稼いだことになる。最多勝に加え、最優秀防御率、最高勝率、最多奪三振と投手のタイトルを総なめにした。
まさに“神懸かり”の状態だった。当時は中3日で「休養十分」と見なされていたが、この年の稲尾は中3日以上空けて登板した試合はわずか18試合に過ぎなかった。
逆に3連投4回を含め連投が26試合ある。西鉄の川崎徳次監督は「すまんのう、お前しかおらんのじゃ」と言って、稲尾を来る日も来る日もマウンドに上げた。それでも稲尾は折れなかった。“鉄腕”の名は伊達ではなかったのだ。
