1995年に楽曲『夢見る少女じゃいられない』でデビューし、90年代のロックシーンを象徴する存在となった相川七瀬さん(51)。不良っぽいイメージのロック歌手としてスターダムを駆け上がった相川さんは、結婚・出産を経て3児の母となり、國學院大學神道文化学部に入学して大学院まで修了する「学び直し」にも挑んだ。2026年11月2日には、29年ぶりとなる日本武道館ワンマン公演に臨む。孤独な10代、ブレイク、子育て、学生生活を経て、音楽活動への向き合い方はどう変わったのか。その軌跡を聞いた。
いじめと両親の離婚、「居場所がない」10代からの上京
1975年に大阪で生まれた相川七瀬さんが歌手を目指したきっかけは、幼い頃から抱いていた“ある違和感”だったという。
「小学生の頃から、本能的に自分の居場所はここじゃないって思ってたんですよ。学校や集団に馴染めなくて歌手になれば、大阪を出て東京に行ける。という発想でオーディションを受けました」
中学時代にはいじめを経験し、両親の離婚も重なる。「すべての人間関係がうまくいかなかった」と振り返る。中学の3年間オーディションに挑戦していたが、うまくいかず一度歌手の夢を諦めて高校に進学した。そこでも学校生活に馴染めず、「自分の居場所がない」という感覚は消えなかった。その後、中学時代のオーディションで出会った作曲家・織田哲郎氏から連絡があり、高校を中退して芸能界に進む決断をする。
「つまずいて立ち直ろうとしたときに、自分のことを誰も知らない街で、真っ白な状態から始めれば、違う自分になれるのかもしれないと思っていました」
そこから織田哲郎氏のもとで、歌詞づくりやレコーディングのトレーニングを重ねながら約3年間の準備期間を経て、1995年に『夢見る少女じゃいられない』でデビュー。
ダークで決して前向きなだけではないロックの世界観が支持され、デビュー曲はオリコン最高12位を記録した。
「歌詞の内容が、自分と乖離していなかったんです。織田さんは中学生の頃から私を知っているので、無理にキャラクターを作らなくてもいいものばっかりだった。それってプロデュースされる側としては、すごく幸せなことだと思います」
かつて「居場所がない」と感じていた相川さんだが、その感覚は少しずつ解けていく。
「織田さんが居場所を作ってくれたんだと思います。東京に連れてきてくれたのも、当時住んでいた家を含めて環境を整えてくれたのも織田さん。ここにいて、仕事をしていいんだって思えたし、人生で初めて信用できる大人ができた、という感覚がありました」
結婚・出産後に訪れた、音楽の迷い
1996年には、1stアルバム『Red』が累計270万枚超のメガヒットを記録し、『恋心』『トラブルメイカー』などのヒット曲を連発。相川さんは90年代ガールズロックの象徴的存在となった。そうした活躍の時期を経て、2000年代に入るとライフステージに大きな変化が訪れる。
2001年2月に結婚、同年9月に第1子を出産した。
「当時、子どもを育てながら活動するアーティストは、ものすごく少数でした。スタッフからも“結婚したらもう終わりだよね”みたいに言われたこともあって、“結婚したらアーティストとしての価値はなくなるのか”“この先アーティストとしてどう思われるのだろうか”と不安でした」
ちょうどその頃、織田氏のプロデュースから離れ、自らの判断で活動を組み立てるセルフプロデュースへ段階的に移っていく。
「自分が織田さんのような曲を書けるわけでもないし、ヒットソングの方程式もわからない。それに私も結婚して、前の自分とも違う。だから楽曲づくりには本当に苦労しました」
国内でR&B色の強い楽曲が注目を集めるなか、周囲から「R&Bをやってみたら?」という提案が増えていった。ロックを軸にしてきた自分とはタイプが違う音楽性への誘いに、20代半ばの相川さんは揺れる。
「そういうタイプのアーティストじゃないのに……っていう葛藤はありました。『万華鏡』という曲なんかは、ディレクターとずっと喧嘩して、アレンジに納得してなかったんですけど(笑)。大人たちに説得されると、それが正しいのかなと思って葛藤はありました。
でもね、30周年のベスト盤のマスタリングで当時の曲を聞き直したら、悪くないと初めて思えたんですよ。当時は、違うジャンルに挑戦することに反発もあったけど、音楽は音を楽しむものだと考えると、ジャンルが違っても私は私なんだと、私の音楽なんだって受け入れられるようになりました」

