岡口元判事「罷免」は「厳しすぎる」のか? 過去に罷免された“7人の裁判官”との比較から浮かび上がる「他人事ではない問題」【憲法学者に聞く】

裁判官だった岡口基一氏が4月3日、SNS上での不適切な投稿を理由に弾劾裁判で罷免された。これにより岡口氏は、今後最低5年間は法曹資格を失うという重大な不利益を受けることとなった。今回の判決の是非については賛否両論があるが、あくまでも法的な観点から見たとき、どのような論点があり、それについてどのように考えるべきか。過去の弾劾裁判での罷免判決の先例との比較も含め、憲法学者に聞いた。

弾劾裁判所が岡口元判事に「罷免」判決を下した理由

まず、裁判官に対する弾劾裁判のしくみと、本件の概要についておさらいしておこう。

弾劾裁判所は、裁判官の身分を奪う「罷免」の是非を決める特殊な裁判所である。憲法64条1項に基づき常設され、裁判官ではなく衆参両議院の国会議員で組織される。そのメンバーを裁判員という。

裁判官を辞めさせることができるのは、弾劾裁判所が罷免の判決を下した場合だけである(憲法78条)。そして、弾劾事由は以下の2つに限られている(裁判官弾劾法2条)。

・1号「職務上の義務に著しく違反し、または職務を甚だしく怠ったとき」
・2号「その他職務の内外を問わず、裁判官としての威信を著しく失うべき非行があったとき」

これは、裁判官の身分保障を確保し、司法権の独立・裁判官の職権行使の独立を守るためである。

岡口元判事は、プライベートでSNS上で行った裁判等に関する投稿の内容が犯罪被害者の遺族の心情を著しく害するものであったことなどを理由として、裁判官弾劾法2条2号の「その他職務の内外を問わず、裁判官としての威信を著しく失うべき非行」にあたるとして、罷免された。

「裁判官としての威信を著しく失うべき非行」とは

「裁判官としての威信を著しく失うべき非行」とは何なのか、文言からでは明確な基準を読み取ることが困難である。どのように考えるべきか。憲法学者の志田陽子教授(武蔵野美術大学造形学部)に聞いた。

志田陽子教授:「裁判官弾劾法2条2号の文言が明確性に欠けることは否めません。たとえば『威信』は価値観により大きく左右される広い意味を持つ言葉です。また、対象となる行為が『職務の内外を問わず』つまり、私生活上の行動まで広汎に含んでいます。

法文の表現が抽象的で、対象となる行為の範囲が広汎になっている場合、解釈によって合憲な範囲内に絞り込むことができるのであれば、その方向の解釈を採るべきことになります。

もし、憲法違反となる適用が起きないように絞り込む指標がない場合には、その法令そのものが憲法違反だというべきことになります。

『裁判官としての威信を著しく失うべき非行』という表現は不明確で、特に『威信』という言葉は主観的な価値判断に依存する点で問題があると思います。

しかし、本条文には、国民によって選挙された代表者である国会議員の良識を信頼して規定されているという側面もあります。したがって、ここでは、法文そのものを直ちに違憲と見るのではなく、憲法の趣旨に適合するように解釈する方向で考えていくこととします。

憲法は、司法権の独立・裁判官の職権行使の独立を定めています(憲法76条)。また、裁判官も人間であり、基本的人権が保障されています。

これに対して、罷免というペナルティは、裁判官の地位を失うだけでなく、向こう5年間、法曹資格自体を奪われるというきわめて強烈なものです。生計の手段そのものが奪われる結果になりかねません。

この重さを考えると、『裁判官としての威信を著しく失うべき非行』という文言も、人権保障、司法権の独立・裁判官の職権行使の独立とのバランスに注意を払って解釈すべきです。すなわち、放置すると明らかに正義に反し、司法権・裁判に対する国民の信頼が決定的に傷つけられるような重大なものに限られると解釈するべきです」

法文の表現が抽象的である場合、それが国民の行動を制約しかねないという危険性がつきまとう。しかし他方で、あえて抽象的な表現にせざるを得ないこともある。その場合に、基本的人権や司法権の独立といった憲法の原理に適合した解釈が求められる。

裁判官弾劾法2条が定める弾劾事由の解釈においては、このような「憲法適合的解釈」が不可欠であるといえよう。

岡口元判事に「裁判官としての威信を著しく失うべき非行」があったか

志田教授は、本件罷免判決においては、このような限定が十分に行われなかった疑いがあると指摘する。

志田陽子教授:「特に、本件では、岡口元判事が個人として行った表現活動が問題になっています。これは表現の自由の行使です。

自分の意見や思想を表現することは、その人の人格形成と自己実現のために不可欠なものです。また、自由に意見を表明し、他の人と異なる意見を交換しあえることは、民主主義を支える土壌にもなります。したがって、表現の自由は基本的人権のなかでもとりわけ高い価値をもつと考えられています。

他方で、表現の自由はいったん傷つけられると、自己回復が困難なものです。そして、実は、一見奇異に見える表現ほど注意が必要です。そのような表現は多くの人から理解されにくく、表現の表面だけをとらえての迫害を受けやすいからです。

今回の罷免判決が、そのような表現の自由の価値について十分な配慮を行った結果として出されたものなのかは、大いに疑問があると考えています」

しかし、そうはいっても、岡口元判事の投稿内容はいくらなんでも健全な社会常識に反してやりすぎではないか。現に、そのような理由で今回の罷免判決を擁護する声も多い。

特に、岡口元判事の投稿は被害者の遺族の感情への配慮に欠けていることは否定できない。また、表現も生々しく過激であるととられてもやむを得ない。社会的に強い批判を浴び、司法権・裁判に対する信頼を害すると評価されてもむしろ当然ではないかとも感じられるが…

志田陽子教授:「裁判官も人間です。裁判官はこうあるべきだ、という理想像と合致する振る舞いを常に要求することは、現実的ではないし、無理なことです。生物として生きている限り、私生活でのルーズな時間があります。また、個性・人格を持った人間として、職務を離れたプライベートな時間に、SNSでざっくばらんな投稿をすることもあり得ます。

職業や表現の自由などの基本的人権を制約するには、他者の権利や社会の安全を害したという事実が必要で、他の人の不快感や嫌悪感、価値観の違いといったものは、基本的人権を制約する根拠にはなり得ません。

表現の自由に関していえば、あらゆる表現行為には、価値観の異なる他者に不快感を与える可能性があります。むしろ、表現がリアルで効果的であればあるほど、不快に感じる人が増える側面があるとさえいえます。

もともと、岡口元判事の文章は、法律用語を知らない一般人が読んでも裁判の要点が分かって、ナマの手触りが感じられるのが個性・魅力でした。

もし、ゴリゴリの法律用語ばかりだったら、何の魅力もなく、世の中から注目されることもなかったでしょう」


岡口基一元判事のX(旧Twitter)アカウント(Xより)

岡口元判事には遺族を傷つける意図がなかったとしても、優れた文才が裏目に出て、遺族の感情を傷つけてしまったということかもしれない。あるいは、そもそも話題として取り上げること自体が遺族の感情を傷つけるものだったともいえる。

我々は、表現という行為自体に、このような性質があるということを、心に留めておく必要があるであろう。

志田陽子教授:「遺族の感情は察するに余りあります。私も、同じ立場ならば強い不快感を覚えただろうと思います。

しかし、刑事上の犯罪や民事上の名誉毀損など、明らかに他人の人権を侵害する行為と同列には扱えません。

もともと裁判というものは、公開される公共情報ですので、表現の仕方が遺族の心情を傷つけたにしても、秘匿情報を一方的に暴露するプライバシー権侵害のような不法性・非行性はありません。

岡口元判事の表現行為が、前述のような、放置すると明らかに正義に反し、司法に対する国民の信頼が決定的に傷つけられるような重大なものとまでいえるかというと、躊躇せざるを得ません。生計の手段まで奪ってしまうほどの制裁を与えるのは行き過ぎだと考えます」

表現に接した人の感情を害したことが、どこまで基本的人権の制約根拠になるのか。難しい問題であるが、その価値判断を避けて通ることはできない。

人権の過度の制約をもたらさないか、慎重な判断が求められるということである。

法的な制裁はすでに与えられていた

志田教授はそれに加え、岡口元判事がすでに裁判所の内外で法的なペナルティを受けていたことも指摘する。

志田陽子教授:「まず、遺族に対しては、岡口元判事はツイートを削除し謝罪しています。また、遺族から提訴された民事訴訟で慰謝料の支払いを命じられ、その支払いも済ませています。

遺族に対する法的責任は果たしており、かつ、総じて誠実な対応をとっているといえます。

一方、裁判所内部でのペナルティとしては、分限裁判(※)により戒告処分を受けています。裁判官の懲戒には『戒告』と、それより重い『1万円以下の過料』の2つがあります(裁判官分限法2条)。そのうち、裁判所はあえて軽いほうの『戒告』にとどめるという判断を行ったのです。

司法の独立性・自律性を尊重するならば、それを踏み越えて弾劾裁判に付したこと自体に問題があります」

ここでも、制裁による効果と、基本的人権、司法の独立性・自律性といった反対利益との慎重な比較考量が求められていたといえる。

※分限裁判:裁判官の懲戒処分、免官(心身の故障、本人の申し出の場合のみ)について決定するための裁判。

過去の弾劾裁判の罷免判決と比較すると…

過去に裁判官が弾劾裁判で罷免された例は、岡口元判事の前に7件ある。まとめると以下の通りである(弾劾裁判所HP「過去の事件と判例」参照)。

①昭和31年(1956年)4月6日判決 帯広簡易裁判所 高井住男判事
あらかじめ署名押印した白紙の令状(捜索・差押え等)を職員に預けておき、職員に令状を作成交付させた等

②昭和32年(1957年)9月30日判決 厚木簡易裁判所 寺迫道隆判事
現地調停の帰路に当事者から800円相当の饗応を受け、その後にもみ消しを図った

③昭和52年(1977年)3月23日判決 京都地方裁判所 鬼頭史郎判事補
検事総長の名をかたって三木首相(当時)にニセ電話をかけ、指揮権発動の裁断を求めるなどした

④1981年(昭和56年)11月6日判決 東京地方裁判所 谷合克行判事補
担当事件の弁護士からゴルフセットと背広(合計18万円)の賄賂を受け取った

⑤2001年(平成13年)11月28日判決 東京地方裁判所 村木保裕判事
3人の少女に児童買春をした

⑥2008年(平成20年)12月24日判決 宇都宮地方裁判所 下山芳晴判事
裁判所の女性職員にストーカー行為をした

⑦2013年(平成25年)4月10日判決 大阪地方裁判所 華井俊樹判事補
電車内で女性のスカートの中を盗撮した

これらの過去の罷免判決事例の共通項は何だろうか。また、岡口元判事の件と比較してどのようなことがいえるか。

志田陽子教授:「過去の事例はいずれも、裁判の公正を害する行為や、令状主義違反や、首相に対する謀略まがいの盗聴活動や、犯罪に類する行為です。

鬼頭史郎判事補の『ニセ電話』は犯罪まではいきませんが、行政権に対し謀略をしかけ、その発動を誤らせるものであり、三権分立を決定的に侵害する重大なものだったといえます。

岡口元判事の場合、裁判の公正等を害する行為は見受けられないし、犯罪に類するような明らかな違法性も認められません。

SNS上で不適切な投稿をし、犯罪被害者遺族等の感情を傷つけたとはいっても、過去の罷免事例と比べると、悪質性のレベルが格段に低いといわざるを得ません」

では、SNSという媒体の特殊性はどう考えるべきか。SNSでの情報発信はあっという間に拡散され、その被害が甚大になる可能性がある。主任裁判員を務めた階猛衆議院議員(立憲民主党)は判決後の記者会見で、SNSでの中傷を苦に自殺する人もいることも指摘し、悪質性が高いと認定したと述べている。

志田陽子教授:「本件で問題になったSNS投稿は、拡散によって被害が際限なく拡大する名誉毀損やプライバシー侵害のようなものとは質的に異なります。表現の仕方が遺族の心情を傷つけるものであったにしても、法的には、名誉感情侵害や侮辱にあたる表現ともいえません。

また、人格権侵害については前述の通り損害賠償を命じる判決が下され、法的責任を果たしています。

今日におけるSNSという媒体の特殊性を考慮するとしても、岡口元判事の行為は、過去の罷免事例と比べて悪質性が低いと考えられます」

SNSの危険性をどこまで判断材料として重視するかは、大きく結論を左右する。いずれの結論をとるにしても、事例に即し、慎重に判断することが求められるであろう。

弾劾裁判には「手続き面の課題」も

志田教授は、上記に加え、今回の弾劾裁判のあり方は「手続き面」でも課題を抱えていたと指摘する。

志田陽子教授:「裁判官も収入を得て生活する勤労者です。懲戒・弾劾は不利益が大きいので、労働法と同じような法理があてはまると考えるべきです。

国家公務員の懲戒事由について定めた国家公務員法74条は『すべての職員の分限、懲戒…については公正でなければならない』と定めています。

公正さを担保するには、不利益な処分を下す前提として本人に十分に弁明をさせる『聴聞(ちょうもん)』の機会が十分に与えられるべきです。

弾劾裁判は公開で行われ、裁判員が出廷するという形がとられています。しかし、傍聴した人によると、毎回、裁判員の欠席が多かったようです。これでは、裁判員同士の十分な合議・協議が期待できず、聴聞の機会が十分に与えられていなかったという疑いがぬぐえません。

裁判員の欠席については、重病等のやむにやまれぬ緊急の必要があり日程の再調整も代理を立てることもできないような特殊な場合に限るなど、厳格な要件を設けるべきではないでしょうか」

他にも、弾劾裁判制度の問題点として、上訴が認められていないことを指摘する声もある。その点についてはどうか。

志田陽子教授:「現行法上、上訴の定めがないのは、主権者の代表たる国会議員が裁くものだから、という考慮によるものかもしれません。

しかし、法曹資格自体を5年にわたって奪ってしまう、生計を立てる手段さえ奪いかねないという罷免判決の過酷な効果から考えると、上訴の定めを設けるべきでしょう」

法の常識は議論を重ねて形成されてきた英知の結晶

問題とされた岡口元判事の一連の行為は、妥当性を欠き、かつ、犯罪被害者遺族等の人々の感情を著しく害するものであったことも否定しがたいであろう。

しかし他方で、司法権の独立、裁判官の独立を蔑ろにすることは、社会全体を危機に陥れかねないものである。また、表現の自由等の基本的人権は傷つきやすいものであり、それに接した人に不快感をもたらすものであるとしても、保障されなければならないものである。

それらの「法の常識」「リーガルマインド」は、時に、一見していわゆる「健全な一般常識」からは乖離しているように感じられることもある。しかし、法の常識は、人類が長い年月をかけ、様々な利益考量をし、議論を重ねて形成されてきた英知の結晶である。それを理解すれば、そこから導き出される結論は、一見「常識」と整合しないように思えたとしても、実は合理的な根拠に基づいていることがわかる。

今回話を聞いた志田陽子教授も、「健全な一般常識」と「法の常識」との間で、人として葛藤していることが感じられた。

私たちは、「法の支配」「基本的人権の保障」を基本原理とする今日の社会に生きる限り、「健全な一般常識」と「法の常識」とが対立する場面にたびたび遭遇することになる。その時、立ち止まって、どの利益とどの利益が対立しているのか、それぞれの利益がどのような法的保護を受けるべきなのか、考えてみる必要がある。

岡口元判事の罷免判決の是非についてどのように考えるにせよ、その視点を決して忘れてはならないであろう。