筆者は橋上監督代行に17年以上取材をし続け、2年前には『オイシックス新潟アルビレックスBCの挑戦』(双葉社)を刊行するため、1年間橋上とチームに密着していた。その年の秋に巨人の一軍コーチへの就任が決まり、今年はコーチの肩書が変わったが、今回の騒動からの人事の決定については、橋上本人にとってもまさに青天の霹靂であったはずだ。

◆忘れがたい2人の名監督
橋上は引退後の指導者としてのキャリアが非常に豊富である。コーチとして楽天で6年(2005~09年、15年)、巨人で4年以上(2012~14年、25年~)、西武で3年(16~18年)、ヤクルトで1年(19年)を歴任した。さらに監督としては独立リーグのオイシックス(前身は新潟アルビレックスBC)で5年を数え、指導歴は合わせて20年近くに及ぶ。以前話を伺った際、野球界で影響を受けた監督が2人いたと明かしてくれた。1人が野村克也、もう1人が原辰徳である。
橋上は安田学園から1983年ドラフト3位でヤクルトに入団した。同期には現在ヤクルトで一軍監督を務める池山隆寛、日本ハムで日本一に輝き侍ジャパンを率いて世界一の監督となった栗山英樹らが名を連ねる。
プロ入り後、武上四郎、土橋正幸、関根潤三という3人の監督の下でプレーしてきたが、1989年秋に野村の監督就任が決まったときには、厳しい野球になるだろうと覚悟を決めた。
◆キャンプでの開口一番、野村は…
野村体制の1年目となる1990年の春季キャンプでのこと。橋上がバットを長く持ってフリーバッティングを行っていたとき、野村が歩み寄って言葉をかけた。「王はバットを一握り余らせて868本。オレはバットをふた握り余らせて657本。おまえさんはバットを目一杯持って、これまで何本ホームランを打っているんだ?」
橋上はプロ6年の間、一軍では1本のホームランしか打っていなかった。ホームランバッターでもなく、胸を張れるような一軍での実績もない。バットを短く持って確実にボールを当て、ゴロを転がすことこそが自分に求められた役割だと理解した。
以降は確実性を高めるためにバットを短く持ち、細かいサインプレーに適応できるようバッティングの技術を磨き続けた。

