◆世間の潮流が諏訪部さんをタイに押し戻しはじめた
コールセンター時代に諏訪部さんは「シンさん」という中国人男性と知りあっている。彼は大阪に留学した経験があり、日本語がペラペラだ。意気投合したものの、センター閉鎖。諏訪部さんはコネなどもなく失業となり、他方シンさんは中国人らしいバイタリティーで、閉鎖直前にさっさとそこを辞め、北京で仕事をみつけて引っ越していった。その後、諏訪部さんは留学時代の伝手で不動産関係の仕事に就くことができた。
「ところがアウトな会社で、給料がなかったんです、2か月くらい。同じく友人だった同僚ももらってなかったので、そこを離れました」
諏訪部さんにはいつも不運しかないが、海外移住あるあるともいえる。こういった細かいトラブルはつきもの。いずれにしても、仕事がなければビザもない状態になるのは必然だ。
「でも、自分の中ですでに日本に帰る選択肢はなかったんです。それで北京でオンラインでホテルなどを予約できるサイトにて端末での顧客受付や電話受けの仕事をみつけまして」
ここで5年弱くらい過ごすことになる。コールセンターで知りあった友人、シンさんも北京にいたのでしばらくは落ち着いた暮らしができた。が、当然このままで終わらない。2012年の9月のこと。リーマンショックも9月なので、諏訪部さんのトラブルはだいたい9月に起こるようだ。
「東京都が尖閣諸島を購入するというニュースで中国国内で反日感情が危険な状態にまでなりました。会社からも市中では日本人同士であっても日本語を喋らないようにというお達しが出たくらいで」
さすがに身の危険を感じた諏訪部さんは「もう中国では暮らせないかもしれない」と思うようになってきた。そうして、タイに移住する動きが諏訪部さんの中ではじまっていくのである。
◆いよいよタイに移住するも「日本人不要」と追いだされた
「旅行の予約サイトの仕事ですから、チケットを安く取ったりできたので、たまの休みにはタイとかによく遊びに来たんですよ」その関係もあって、同時に反日問題といった背景も考え、「ちょっと中国に一度見切りをつけて、タイに移住しようかな」という気持ちが出てくる。当然、その時点では仕事があるわけでもない。しかし、勢いで辞職しバンコクでタイ語学校に入って、2013年、移住生活がスタートした。
とはいえ、ふんだんな移住資金があったわけでもない。そのため、バンコクにある人材派遣会社(タイでは派遣社員ではなく、企業へいわゆる現地採用という正社員候補を斡旋をする会社)を経由し、バンコク郊外にあるプラスチック成型の製品を造る会社に就職する。
「1年とちょっと働きましたが、そこと日本のクライアントがケンカしちゃったんですよね。日本からの仕事がなくなり、もう日本人いらないよ、みたいな」
いつも自分の力のおよばないところで働き口がダメになっていく。中国時代を含め、とことん不運の状態だが、ある意味では今現在の生活に入っていくための、運のいい流れだったともいえるかもしれない。タイ企業を追いだされたタイミングで、諏訪部さんの実父の病気が発覚。実家から帰ってきてほしいといわれていたところだった。
「父の病気がわかった段階ではガンがステージ4で、帰って2週間も経たないうちに亡くなりました。最期を看取れたので、運命に呼ばれたのかなっていうのもあります」
葬儀のほか、いろいろな処理や手続きがあるわけで、諏訪部さんは「母ひとりではなにもできなかったでしょう」から実家で手伝いができたのはよかった。ただ、このためにタイになかなか戻れず、移住がいったんとん挫してしまう。結局1年くらい日本にいたとき、彼から連絡が来るのである。
「中国のシンさんからバンコクで会社を立ち上げたと連絡がありました。バンコク不動産の仲介業をしているので、北京で給料はもらえなかったものの不動産業に関わっていましたから、一緒にどうかって」
ふたつ返事で諏訪部さんはタイに戻った。2018年のころだ。

