条約による「合法化」という戦術
オーギュスト・ラフェ『イタリア、1796年、ナポレオン・ボナパルト』, Public domain, via Wikimedia Commons.
ナポレオンの略奪が特徴的だったのは、軍事力を背景にしながらも、それを戦後処理の「条約」の中に明文化した点にあります。
1797年2月19日、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス共和国軍と、時の教皇ピウス6世の間で締結されたのが、トレンティーノ条約です。この条約には、土地の割譲のほかに美術品や古文書の譲渡が明文化されており、実質的にバチカンは多くの傑作をフランスに差し出すことになりました。
そこに含まれていたのは、100点の絵画、胸像、花瓶、彫像、そして500点に及ぶ貴重な古写本。有名な作品としては、古代彫刻の最高傑作『ラオコーン像』やラファエロの『キリストの変容』が含まれています。
ナポレオンが非常に狡猾だったのは、この戦後処理にあります。これらは単なる「戦利品」ではなく、正式な「賠償品」としてリスト化され、ローマからパリへと運ばれました。武力で奪うだけでなく、法的な形式を整えることで、返還の要求を封じ込めようとしたのです…。
奪われた「サン・マルコの馬」。そしてヴェネツィアの崩壊…
サン・マルコ大聖堂の馬像, Public domain, via Wikimedia Commons.
ナポレオンによる略奪の象徴的な事件の一つが、千年の歴史を誇ったヴェネツィア共和国の終焉です。1797年、ナポレオンはヴェネツィアを占領し、その象徴であるサン・マルコ寺院の正面を飾っていた「黄金の四頭の馬(サン・マルコの馬)」を取り外させました。
ブロンズ像を盗まれただけでヴェネツィアは弱体してしまったのか?と疑問に思うかもしれませんが、この古代ブロンズ像は、かつて十字軍がコンスタンティノープルから持ち帰ったヴェネツィアの誇りだったのです。
ヴェネツィア, Public domain, via Wikimedia Commons.
18世紀末のヴェネツィア共和国は、中世から近世にかけての勢いを失っており、軍事行動には消極的でした。「武装中立」して戦闘を避けていたにもかかわらず、ナポレオンはどうにか口実を見つけて宣戦。もちろんそれは、ヴェネツィアが抱える美術作品を奪うためでした。
ナポレオンはヴェネツィア人の栄光を長年見守ってきたブロンズ像「サン・マルコの馬」をパリへと運び、カルーゼル凱旋門の上に設置させました。この一連の略奪行為は、ヴェネツィアの魂を奪い、自らの帝国の軍事的・歴史的継承権を誇示するための、政治的な演出でした。
